山南ノート4【劇団夢桟敷】

山南ノート4冊目(2008.10.3~)
劇団夢桟敷の活動や個人のことなどのメモとして公開中。

マッタあり!書きなおし。

2013-10-23 23:54:35 | 遊戯療法~レミングより
劇団夢桟敷は1979年に立ち上げたのだが、その大きなきっかけとなったのは1978年の唐十郎率いる状況劇場が「ユニコン物語」を熊本の子飼橋下河川敷で上演した時だった。
当時、悶々としていた20代の青年たち10数名が文芸サークルを作って状況劇場受け入れを手伝っていた。「ユニコン物語」と立ち会ってからというもの、演劇への志に火がついてしまった。元々、学生時代に学園祭でお芝居をしていた連中だった。黒テントの赤いキャバレーでは「馬 安倍定」にも受け入れで関わっていた。
受け入れや追っかけでは物足りずに劇団を立ち上げよう!ということになった。意気盛んな時だった。
その内の4名(夢現、上村源太、浦上女史と私)が東京へ出て行ったのが1979年4月。その年に天井桟敷の演劇「レミング」を晴海ふ頭で立ち会う。

その「レミング」を寺山修司没後30年で上演したのが今年の4月。寺山死後、生まれたメンバーたちが大半の集団で上演する。
7月ー8月はワークショップ「寺山修司研究会」を週1回のペースでおこない、1960年代からの日本の演劇史を捉えることになった。
この研究会でお世話になった崇城大学芸術学部の三枝先生(寺山修司学会所属)よりSTREET ART-PLEX KUMAMOTOへの参加を呼びかけられ市街劇を10月19日に決行する。流れ的には「寺山修司」の世界で繋がった。
寺山劇の公演としては次回は第2弾になる。しかし、「レミング」-「研究会」-「市街劇」-「遊戯療法」の4段跳びで、今年の演劇活動はテラヤマ一色となった。

ここにきて「マッタ!」である。
私たちの演劇は作品発表だろうか。つまり、テラヤマを作品(テクスト)として紹介するに止まってよいのだろうかという疑問が膨らむ。
元々、演劇は戯曲の再現ではないと思って取り組んできた。恐れ多いことだが、空論を恐れずに言うと「戯曲以上」のものが舞台に現れなければならない。上演する集団の今を浮かび上がらせたい。
戯曲の命は<いつ><だれが><何を>が時間と空間を超えるものだ。それを確認しようと思った。
この時代、ここの人間たちが次回公演では<何を>形にするかが見え隠れしてきたのである。
寺山修司と天井桟敷の人々が実験してきた演劇を、その延長として公演に臨む。
作らなければならない。壊すべきものは壊さなければならない。
ひとつ、「ことばの時代」「静かな演劇」に私たちは叛乱する。

市街劇ではそれを経験した。
明かすと、台本はなかった。出演者たちはどんなに不安だったろうか。個人差はあるが、その不安が爆発したように思えた。
結果、それが台本通りだったのである。結果、出演者も立ち会ってくれた方々(観客)も共同の創作者となった。
寺山修司の台本はそれが起爆剤としてある。その仕掛けがある。
人間の想像力、演劇は死なない。
只今、構成台本、書きなおし中である。

今日の稽古は午後4時ー6時まで仕掛け会議。6時ー9時半まで稽古。その後、酔ってふらふらするだろう。