大阪へ出発するまでにアト2回の稽古となった。
引き算の劇作りも板についた感じ。全体の流れも起伏がある。
これからラスト2の稽古は底上げから劇団のトップランナーたちを昇りつめさせよう。苦労した分だけ喜び倍増。
今、キッズミュージカルで頑張っている劇団のアイドル=KARENちゃん親子も見学に来てくれた。和みます。彼女は12月の指宿公演でデビュー(座敷童子)するのだが、稽古場にいるだけでイメージは広がる。
昨夜は元劇団員のMURA君も来てくれ、稽古終了後にオメデタイ話も聞けた。私には大阪公演終了後に初孫誕生の予定もあり。
反面、タイの水害やトルコの大地震、この地球はどうなっているのだろうかというくらい異変がつづいている。世界中の政治や経済も不安定になっている。独裁も民主主義も資本主義も崩壊寸前のようになった。
今回上演する「KAGUYA」も自然界、社会の異変には関係している物語になっている。だが、それを説明し伝える劇ではない。
ラストの場面に不安があったが、今日の稽古で一発ストライク、一発逆転のホームランの手応えを感じた。
直球の台詞が生きてきた。劇はことばを超える。身体やこころが爆発して見えた。泣ける。
このネタは劇団の旗揚げ「梅川事件」の時に、困り果てたところから生まれた場面である。それが蘇った。超えた。
昨年末からシリーズ化した「KAGUYA」であるが、民話や伝説、日本の昔ばなしに発見したことがある。・・・人間底辺の部分から湧き起こってくる叫びのようなものを感じた。
怖いものは妖怪や幽霊などではない。人のこころ、自然界に怖さや不思議を感じる。宇宙の一片としてある私たちだ。劇と関わっていることも不思議である。古代も未来も繋がる。
この「日本の昔ばなし」シリーズは、夢桟敷ならではの様式でつづけてみたい!欲求にかられている。
いよいよ大阪公演間近!流星群の皆さま、ご来場予定の皆さま、よろしくどうぞ。
☆
■劇的とは「怖いモノみたさ」(笑)
劇団夢桟敷が2010年12月から取組んできた「KAGUYA」は一年をかけて四回の改訂を繰り返すことになった。
原作は劇団夢桟敷の座長=夢現(ゆめうつつ)である。
当初のイメージは【月と胎児幻想】として捉えた。
それをコラージュ(構成)する方法で、無限に想像力を広げていく演劇実験のテキストとして行った。
日本の昔話「かぐや」には劇団夢桟敷の独自な劇作法を現す仕掛けがある。
物語は変化する。
物語は人間のイメージであり、言葉により形付けられる。
「イメージは進化する。」のである。この点に於いて、劇は想像力と役者という身体の戯れである。
劇は傾(かぶ)く。目に見える形として歌舞伎(かぶく)のである。アングラ劇の源流は歌舞伎か。怖い様式に美しさを。そして、滑稽である。
かぐやは桃太郎にもみられるように人間ではないものから生まれている。
ここに奇形としての出生の謎を読み取ることができる。
妖怪の伝説である。
胎児幻想が妖怪の物語にすり替わった。
暴力的解釈へと飛躍したのである。飛躍から後戻ると人間が見える。
かぐやを人間として捉えると千年前の口減らしの子に見えた。
美しい娘の悲劇であり、生き延びるためには村社会から避難場所としての「月」になるのである。避難すること、逃亡することには勇気がいる。
戦争の時代だったら非国民、国賊、裏切り者として村八分か自決(死)に迫られる。
今日のような天変地異の時代だったらどうだろうか。危険な場所から避難すること、逃亡することは容易なことではない。
劇的とは何か。アラタメテ自問自答スル。
避難、逃亡することも危険な行為である。劇的とは安全ではない。危険なモノを現そうと右往左往しながら「怖いモノ」を探しつづける。
しかし、安全神話が崩壊したように、危険神話も崩壊する。
物語を崩壊させることにより「怖いモノ」が「笑いモノ」になったりするのである。
この時代にナンセンスが飛び交うことの意味は深い。劇では唐突にナンセンスが飛び交う。
引き算の劇作りも板についた感じ。全体の流れも起伏がある。
これからラスト2の稽古は底上げから劇団のトップランナーたちを昇りつめさせよう。苦労した分だけ喜び倍増。
今、キッズミュージカルで頑張っている劇団のアイドル=KARENちゃん親子も見学に来てくれた。和みます。彼女は12月の指宿公演でデビュー(座敷童子)するのだが、稽古場にいるだけでイメージは広がる。
昨夜は元劇団員のMURA君も来てくれ、稽古終了後にオメデタイ話も聞けた。私には大阪公演終了後に初孫誕生の予定もあり。
反面、タイの水害やトルコの大地震、この地球はどうなっているのだろうかというくらい異変がつづいている。世界中の政治や経済も不安定になっている。独裁も民主主義も資本主義も崩壊寸前のようになった。
今回上演する「KAGUYA」も自然界、社会の異変には関係している物語になっている。だが、それを説明し伝える劇ではない。
ラストの場面に不安があったが、今日の稽古で一発ストライク、一発逆転のホームランの手応えを感じた。
直球の台詞が生きてきた。劇はことばを超える。身体やこころが爆発して見えた。泣ける。
このネタは劇団の旗揚げ「梅川事件」の時に、困り果てたところから生まれた場面である。それが蘇った。超えた。
昨年末からシリーズ化した「KAGUYA」であるが、民話や伝説、日本の昔ばなしに発見したことがある。・・・人間底辺の部分から湧き起こってくる叫びのようなものを感じた。
怖いものは妖怪や幽霊などではない。人のこころ、自然界に怖さや不思議を感じる。宇宙の一片としてある私たちだ。劇と関わっていることも不思議である。古代も未来も繋がる。
この「日本の昔ばなし」シリーズは、夢桟敷ならではの様式でつづけてみたい!欲求にかられている。
いよいよ大阪公演間近!流星群の皆さま、ご来場予定の皆さま、よろしくどうぞ。
☆
■劇的とは「怖いモノみたさ」(笑)
劇団夢桟敷が2010年12月から取組んできた「KAGUYA」は一年をかけて四回の改訂を繰り返すことになった。
原作は劇団夢桟敷の座長=夢現(ゆめうつつ)である。
当初のイメージは【月と胎児幻想】として捉えた。
それをコラージュ(構成)する方法で、無限に想像力を広げていく演劇実験のテキストとして行った。
日本の昔話「かぐや」には劇団夢桟敷の独自な劇作法を現す仕掛けがある。
物語は変化する。
物語は人間のイメージであり、言葉により形付けられる。
「イメージは進化する。」のである。この点に於いて、劇は想像力と役者という身体の戯れである。
劇は傾(かぶ)く。目に見える形として歌舞伎(かぶく)のである。アングラ劇の源流は歌舞伎か。怖い様式に美しさを。そして、滑稽である。
かぐやは桃太郎にもみられるように人間ではないものから生まれている。
ここに奇形としての出生の謎を読み取ることができる。
妖怪の伝説である。
胎児幻想が妖怪の物語にすり替わった。
暴力的解釈へと飛躍したのである。飛躍から後戻ると人間が見える。
かぐやを人間として捉えると千年前の口減らしの子に見えた。
美しい娘の悲劇であり、生き延びるためには村社会から避難場所としての「月」になるのである。避難すること、逃亡することには勇気がいる。
戦争の時代だったら非国民、国賊、裏切り者として村八分か自決(死)に迫られる。
今日のような天変地異の時代だったらどうだろうか。危険な場所から避難すること、逃亡することは容易なことではない。
劇的とは何か。アラタメテ自問自答スル。
避難、逃亡することも危険な行為である。劇的とは安全ではない。危険なモノを現そうと右往左往しながら「怖いモノ」を探しつづける。
しかし、安全神話が崩壊したように、危険神話も崩壊する。
物語を崩壊させることにより「怖いモノ」が「笑いモノ」になったりするのである。
この時代にナンセンスが飛び交うことの意味は深い。劇では唐突にナンセンスが飛び交う。