ブラジルに着いて2日目の朝を迎える。ここはサンパウロ市から内陸に600km向かった赤土の農場。アリアンサ市の弓場農場内テアトロ・ユバ。公演会場の第一ステージとなる。
創立者の弓場勇氏(1926年5月26日ハワイ丸にて着伯。6月1日アリアンサ入植。1976年12月10日没70才)・・・「芸術すること、宗教すること、百姓すること。この三つがハーモニーした生活こそ人間の求める本質的な生き方である。」という生活に根差した思想の下に、舞踊家小原明子氏の指導による弓場バレエ団を組織した。
2月6日(金)
朝から仕込みに取り掛かる。
弓場での会場担当は過眞嶋憲法(鈴木貞次郎役。通称ましまん。)・・・カマシマノリノリと読む。名古屋の少年王者舘の天野天街さんから名付けられて、本人は気に入っている。
昨年2008年は劇団1980が「ええじゃないか」をここで上演した。気合が入る。昨年、ブラジルでは維新派(大阪)も上演しており、新劇以降の波が押し寄せていることに安堵感もあった。
劇団笠戸丸は熊本から「小劇場」を発信しよう!とブラジルにやって来た。
移民の父と言われる上塚周平をテーマにした劇である。その表現方法に「歌って踊る」シュールな感動を作ったつもりで来た。
通用するだろうか。内心、不安はあった。
舞台のセットを組み立てる作業で気は紛れるものの、手際の悪さが目に付く。日本から移動しただけで皆、疲れきっているのだろうか。暑さの故か。
仕切っているのは村上精一。舞台監督として板についてきた。西岡卓さんとのコンビーネーションで、各自の分担作業を決める。
だが、ここでも「出来る者・出来ない者」の個人差が目に付く。出来る者の個人負担が大きい。それぞれ頑張っているのだが、「出来ない者」の口数が多い。
テアトロ・ユバではアリアンサ青年団が面倒をみてくれる。
飲料水の確保、会場が乾いた土のために水まで撒いてくれる。椅子を並べる。音響や照明機器についても丁寧に教えて頂く。
安永兄さんもずっと会場で立ち会ってくれていた。
夕刻までにほぼ仕込が完了する。
夕食後、ゆいちゃん、東田さん(通称、まなみぃ)、工藤慎平の三名の体調が悪く、近くの病院へ連れていってもらった。
ユバ農場の方には何から何まで気を使って頂く。健康状態まで目を配って頂いていた。・・・私のところにやって来て、「あの子は舞台に立てる状態ではないのでは?」と何度も言ってくる。同じ舞台人として見抜かれていたのである。役者は体が資本!だということを一番に心得ている。
「できることなら、プロミッソンまで休ませてあげなさい。」とも言われた。
本番中に倒られると、「中止」ということにもなる。600人以上の来場者を予定しており、ユバ農場の方々も気が気ではないのだった。数百キロ離れたところからも貸し切りバスで見に来られることも聞いた。
三人が病院へ運ばれている間にリハーサルはおこなわれた。
ハプニングは想定していた。
私は明日のリハーサルで劇の作り変えを考えていた。
2月7日(土)
座長はゆいちゃんと夜中まで話し合っていたと言う。座長も唇を切っており、早く休みたかったであろう。疲労困憊である。
朝食後、私は土下座をして「今回のステージは休め」とゆいちゃんに言った。彼女も土下座して「出させて下さい」と言う。
土下座の経験は過去にも経験あり。今回で二度目である。
一度目はヤクザに対して土下座したことがある。若かった頃。殺されるかと思った。思い出したくない辛い過去である。今、こうして生きていられるのもヤクザが土下座を認めたからである。
今回の土下座は、みんなのやさしさだと思っている。やさしさは厳しい。何でも言うことを聞いてあげることばかりがやさしさではない。
しかし、話し合いが長引いてはならない。今日は本番なのだ。座長の一声。「仕方がない。」彼女の口癖が決断を早めた。「出演決定!」
もし何かあったら、私がゆいちゃんを日本に連れて帰ってあげよう。その際は卓さんが照明係りに回ればよいか。このやさしさはホンモノだろうか。目を閉じることにした。時間がない。
午前と午後に一本ずつリハーサルをする。体力勝負はつづく。集中力も要求される。風邪の二人組は回復したように見える。やはり、ゆいちゃんは心配であった。
一人に気をとられている場合ではない。演出は全体なのだ。本番に向けてスイッチを切り替えた。
集団活動の総決算が舞台に現れる。・・・第一ステージは始まる。
夕方より農作業場倉庫では屋台が並んだ。貸し切りバスや乗用車が続々と集まって来た。
7時半には開演だと思っていたが、受付では8時開演になっていた。屋台が7時45分まで営業だとのこと。
アリアンサ市長も挨拶で駆けつけてくれることになっていたが、8時になっても来ず。もう30分押す。
結局、一時間遅れて開演となる。日本だったら暴動が起こってしまうのではないだろうか。
滑り出しの口上から拍手喝采である。650人で満席。後ろまで声が届いているのだろうか。後ろの席は日本語がわからないブラジル人が目立った。日系の方が訳してくれている。
ポルトガル語で話すところで笑いが起こった。ちゃんと話せていたのだろうか。その心配はなく、現地の言葉(ポルトガル語)で台詞を言っていることに好感が持てたらしい。
反応は上々。
照明室は舞台下手袖にあるから振り向けば客席が良く見える。涙を流しているお客さんも大勢いた。
エンディングではスタンディングコール「ブラボー!ビバ!万歳!」の声が聞こえた。これまでに経験したことのない歓迎である。
公演終了後は出口でお客さんを役者たちが見送った。握手で見送る。一言ずつ励ましや感想を頂いて涙が溢れる。
舞台バラシで夜11時を回っていたが、ユバ農場の方々とアリアンサ青年団の方たちが打ち上げ交流会の席を設けて待ってくれていた。
若い者たちも多くいたから、劇団員たちも大はしゃぎである。
特に会場担当者だったましまんは感慨深かったろうと思う。何でもが初めての経験であり、責任感の強い男である。
酔いに任せてベッドで熟睡していると何やら柔らかい気配を感じた。
劇団員の女優の誰かが酔って私のベッドに来たのかと思った。もう体力は残っていない。「今度ね、ゆっくり!」と囁いて目を開けると、大きな食用蛙だった、人間の頭くらいはある。完全に酔いが覚めた。
食堂に行くと朝5時だというのにハル君が若い女の子たちと飲んでいた。彼は女好きじゃのう。健康な証拠である。
創立者の弓場勇氏(1926年5月26日ハワイ丸にて着伯。6月1日アリアンサ入植。1976年12月10日没70才)・・・「芸術すること、宗教すること、百姓すること。この三つがハーモニーした生活こそ人間の求める本質的な生き方である。」という生活に根差した思想の下に、舞踊家小原明子氏の指導による弓場バレエ団を組織した。
2月6日(金)
朝から仕込みに取り掛かる。
弓場での会場担当は過眞嶋憲法(鈴木貞次郎役。通称ましまん。)・・・カマシマノリノリと読む。名古屋の少年王者舘の天野天街さんから名付けられて、本人は気に入っている。
昨年2008年は劇団1980が「ええじゃないか」をここで上演した。気合が入る。昨年、ブラジルでは維新派(大阪)も上演しており、新劇以降の波が押し寄せていることに安堵感もあった。
劇団笠戸丸は熊本から「小劇場」を発信しよう!とブラジルにやって来た。
移民の父と言われる上塚周平をテーマにした劇である。その表現方法に「歌って踊る」シュールな感動を作ったつもりで来た。
通用するだろうか。内心、不安はあった。
舞台のセットを組み立てる作業で気は紛れるものの、手際の悪さが目に付く。日本から移動しただけで皆、疲れきっているのだろうか。暑さの故か。
仕切っているのは村上精一。舞台監督として板についてきた。西岡卓さんとのコンビーネーションで、各自の分担作業を決める。
だが、ここでも「出来る者・出来ない者」の個人差が目に付く。出来る者の個人負担が大きい。それぞれ頑張っているのだが、「出来ない者」の口数が多い。
テアトロ・ユバではアリアンサ青年団が面倒をみてくれる。
飲料水の確保、会場が乾いた土のために水まで撒いてくれる。椅子を並べる。音響や照明機器についても丁寧に教えて頂く。
安永兄さんもずっと会場で立ち会ってくれていた。
夕刻までにほぼ仕込が完了する。
夕食後、ゆいちゃん、東田さん(通称、まなみぃ)、工藤慎平の三名の体調が悪く、近くの病院へ連れていってもらった。
ユバ農場の方には何から何まで気を使って頂く。健康状態まで目を配って頂いていた。・・・私のところにやって来て、「あの子は舞台に立てる状態ではないのでは?」と何度も言ってくる。同じ舞台人として見抜かれていたのである。役者は体が資本!だということを一番に心得ている。
「できることなら、プロミッソンまで休ませてあげなさい。」とも言われた。
本番中に倒られると、「中止」ということにもなる。600人以上の来場者を予定しており、ユバ農場の方々も気が気ではないのだった。数百キロ離れたところからも貸し切りバスで見に来られることも聞いた。
三人が病院へ運ばれている間にリハーサルはおこなわれた。
ハプニングは想定していた。
私は明日のリハーサルで劇の作り変えを考えていた。
2月7日(土)
座長はゆいちゃんと夜中まで話し合っていたと言う。座長も唇を切っており、早く休みたかったであろう。疲労困憊である。
朝食後、私は土下座をして「今回のステージは休め」とゆいちゃんに言った。彼女も土下座して「出させて下さい」と言う。
土下座の経験は過去にも経験あり。今回で二度目である。
一度目はヤクザに対して土下座したことがある。若かった頃。殺されるかと思った。思い出したくない辛い過去である。今、こうして生きていられるのもヤクザが土下座を認めたからである。
今回の土下座は、みんなのやさしさだと思っている。やさしさは厳しい。何でも言うことを聞いてあげることばかりがやさしさではない。
しかし、話し合いが長引いてはならない。今日は本番なのだ。座長の一声。「仕方がない。」彼女の口癖が決断を早めた。「出演決定!」
もし何かあったら、私がゆいちゃんを日本に連れて帰ってあげよう。その際は卓さんが照明係りに回ればよいか。このやさしさはホンモノだろうか。目を閉じることにした。時間がない。
午前と午後に一本ずつリハーサルをする。体力勝負はつづく。集中力も要求される。風邪の二人組は回復したように見える。やはり、ゆいちゃんは心配であった。
一人に気をとられている場合ではない。演出は全体なのだ。本番に向けてスイッチを切り替えた。
集団活動の総決算が舞台に現れる。・・・第一ステージは始まる。
夕方より農作業場倉庫では屋台が並んだ。貸し切りバスや乗用車が続々と集まって来た。
7時半には開演だと思っていたが、受付では8時開演になっていた。屋台が7時45分まで営業だとのこと。
アリアンサ市長も挨拶で駆けつけてくれることになっていたが、8時になっても来ず。もう30分押す。
結局、一時間遅れて開演となる。日本だったら暴動が起こってしまうのではないだろうか。
滑り出しの口上から拍手喝采である。650人で満席。後ろまで声が届いているのだろうか。後ろの席は日本語がわからないブラジル人が目立った。日系の方が訳してくれている。
ポルトガル語で話すところで笑いが起こった。ちゃんと話せていたのだろうか。その心配はなく、現地の言葉(ポルトガル語)で台詞を言っていることに好感が持てたらしい。
反応は上々。
照明室は舞台下手袖にあるから振り向けば客席が良く見える。涙を流しているお客さんも大勢いた。
エンディングではスタンディングコール「ブラボー!ビバ!万歳!」の声が聞こえた。これまでに経験したことのない歓迎である。
公演終了後は出口でお客さんを役者たちが見送った。握手で見送る。一言ずつ励ましや感想を頂いて涙が溢れる。
舞台バラシで夜11時を回っていたが、ユバ農場の方々とアリアンサ青年団の方たちが打ち上げ交流会の席を設けて待ってくれていた。
若い者たちも多くいたから、劇団員たちも大はしゃぎである。
特に会場担当者だったましまんは感慨深かったろうと思う。何でもが初めての経験であり、責任感の強い男である。
酔いに任せてベッドで熟睡していると何やら柔らかい気配を感じた。
劇団員の女優の誰かが酔って私のベッドに来たのかと思った。もう体力は残っていない。「今度ね、ゆっくり!」と囁いて目を開けると、大きな食用蛙だった、人間の頭くらいはある。完全に酔いが覚めた。
食堂に行くと朝5時だというのにハル君が若い女の子たちと飲んでいた。彼は女好きじゃのう。健康な証拠である。