今日は、95年から96年にかけて参戦したフォルティチームをご紹介します。
基本データ
予選出走回数 54台 155位
予選不通過数 9台 32位
完走率 39.5% 89位
チームの歴史
95年から参戦。ブラジルの富豪ペドロ・ディニスの持込み資金により参戦を果たす。F3000では、トップクラスのチームであったようだ。
当時は、C級チームが他にシムテック、パシフィックといったところで下位争いをしていたがさすがに参戦年数の上で先輩格の2チームより予選では下位に沈んでいた。マシンは、型落ちでパワステすら付いてなく当時のF1レベルには追い付いていなかった。
しかしながら豊富な資金で次第に上記の2チームに匹敵するスピードに追い付きだした。
第2戦アルゼンチンGPでは、完走しながらも規定周回数に及ばず完走扱いにならないという珍記録も作った。
ドライバーは、新人のディニスをベテランドライバーで下位チームだと速さを見せたモレノがさながらコーチのように走っていた。モレノは、ディニスより劣ったマシンながらも粘り強く走った。シーズン後半になるとディニスも力をつけ最終オーストラリアGPで予選20位、7位完走と好記録。
しかしながらこの豊富な資金力に他の中堅チームが目をつけないはずも無く、ディニスは翌年リジェに移籍。結果的に、翌年フォルティチームは資金力に困ることになる。
96年、トップから107%以内のタイムでないと予選通過できずその影響で度々予選落ち。第2戦ブラジルGPでバドエル(チームメイトは、モンテルミーニ)がチーム最高予選順位の19位を記録。しかしながら確実性に乏しく資金不足からパーツ不足も顕著に。結局第10戦のイギリスGPで撤退となった。
結局、ディニスのステップアップのためだけのチームということになった。
基本データ
予選出走回数 54台 155位
予選不通過数 9台 32位
完走率 39.5% 89位
チームの歴史
95年から参戦。ブラジルの富豪ペドロ・ディニスの持込み資金により参戦を果たす。F3000では、トップクラスのチームであったようだ。
当時は、C級チームが他にシムテック、パシフィックといったところで下位争いをしていたがさすがに参戦年数の上で先輩格の2チームより予選では下位に沈んでいた。マシンは、型落ちでパワステすら付いてなく当時のF1レベルには追い付いていなかった。
しかしながら豊富な資金で次第に上記の2チームに匹敵するスピードに追い付きだした。
第2戦アルゼンチンGPでは、完走しながらも規定周回数に及ばず完走扱いにならないという珍記録も作った。
ドライバーは、新人のディニスをベテランドライバーで下位チームだと速さを見せたモレノがさながらコーチのように走っていた。モレノは、ディニスより劣ったマシンながらも粘り強く走った。シーズン後半になるとディニスも力をつけ最終オーストラリアGPで予選20位、7位完走と好記録。
しかしながらこの豊富な資金力に他の中堅チームが目をつけないはずも無く、ディニスは翌年リジェに移籍。結果的に、翌年フォルティチームは資金力に困ることになる。
96年、トップから107%以内のタイムでないと予選通過できずその影響で度々予選落ち。第2戦ブラジルGPでバドエル(チームメイトは、モンテルミーニ)がチーム最高予選順位の19位を記録。しかしながら確実性に乏しく資金不足からパーツ不足も顕著に。結局第10戦のイギリスGPで撤退となった。
結局、ディニスのステップアップのためだけのチームということになった。