餅つき

2019-12-23 22:09:26 | 日記

 糀造りからはじめて、味噌仕込み、餅つきと昨日でようやく終えました。毎年この時期雪が積もっていて、冬なれど今年はなんだかぬーぼーとした陽気である。餅つきはもうここではすっかりお祭り騒ぎで、来られる人たちも多く、何やら見知らぬ人さえもいる。お餅35臼搗いた。と言ってもそれがどのくらいの量なのか見当付かない方も多いのではないだろうか。餅米そのものは70キロ、それが浸水するため⒈2倍には増えている。一臼2升づつ搗く(何回も搗くのが大変だから1升ます山盛りでしている)。昼飯用だけで3臼6升も食べているわけだから、凄い量だと思う。なんだかねこういうことは集っておられる方がみんな笑顔で、わいわいがやがやと昨日は小さな子供たちもいて、なんとも賑やかなことでした。

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琵琶奏者

2019-12-20 21:38:26 | 日記

 昨日まことにひょんなご縁で、琵琶奏者の櫻井さんが来られた。本堂で献納したいということで、平家壇ノ浦の一節を演奏してくれたのだ。もちろんナマの琵琶演奏初めて、これがびっくりでした。これは琴、三味線、三線などとはまったく違うもの。徒然草の兼好法師が琵琶を奏でていたらしいのですが、それを五木寛之はロックいわばエレキギターをやっていたんだ。と言っていましたが。ようやくその意味するところ合点した次第。何かね、ジャジャーンと琵琶をかき鳴らすとき、こちらの内までざわざわと響かせるのです。そこから諸行無常(ショーギョーウムジョウーの)と低音で響かせるものだから、おおっーとなるじゃない。いやはやびっくりしたしたのしかった。なんだかね、あらためて楽器っていいなぁ、凄いなぁ。おらっちもなんかやりたーいと思ったもの。

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小野小町

2019-12-18 20:52:58 | 日記

 初雪が降り積もってからというもの、なんともぬくいのだ今日なども少し動いただけで汗ばむくらい。そんななか15日に糀造りを百キロのお米を蒸して簡易糀室の中で発酵、担当が遼雲、懸命にやっている。さっき夕方、どうやらいいものができたと、言うていた。この21日は味噌仕込み22日は餅つきと続きます。

 昨晩、古文の会でした。この会のおかげで古典を読み進めることができて、なんともうれしいことです。小野小町の名前だけはしっていた。なにせ絶世の美女なのですから。しかしながら、ほとんどのことは知らないままなのでした。けれど、こんな1首に出会うとちょっとどきっとして、何かこちらのようにぼんやりしていると、バカにされそうと言うか、すみませんとつい小声でいってしまうような、そんな雰囲気を感じさせてくれる。

  色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける

現代語訳、色(表面的で変わりやすいもの)がないけれども色あせるものとは何だろう。それが人の心という名の花だったのだ。

ついでに紀貫之の歌を

 夢とこそいふべかりけれ世の中にうつつあるものと思ひけるかな

現代語訳、この世はまさに夢以外の何物でもなかった。だのに、今度あの人に死なれるまでは、私はこの世に不滅の「現実」が存在するのだとばかり思っていた。

仏教では自分というあり方やこの世の様を仮有のものと表現する。普段のわれらは暮らしそのものに追われているから、夢であるとか仮にあるものなどということがまったくピンとこない。けれど、大切に思っているかけがいのないものの死に出会うと、現実というありようがいったい何なのか、この自分と言わしめているものがなに!と、問われざるを得ない。

 「日本語の年輪」大野晋著という本がある。もうかなり前に読んだ本で、書棚にしまい込んでいた。古典に接するようになって、開いている。がぜんその言わんとすることが腑に落ちることばかりで、このポンコツ頭でもまだまだ鍛え甲斐があるようでこんなことどももうれしいことである。

例えば愛とか自然という言葉は、やまと言葉にはないそうである。だからどこまでいってもあいまいで、もぞもぞ、ぐずぐずするのはこちらだけの話ではなく文化の問題であったということも、何やら安心するのであった。

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満月

2019-12-11 21:45:30 | 日記

 このところ晴れのお天気が続いている。夜も晴れており、お月さんがくっきりと丸くなっていく様子が。どういうのだろう・・昨日とは違う今というものを感じ取っているのだろうか。古今和歌集などの古文を読んでいると、陰暦で書かれてあるということにいつもある戸惑いを感じている。新月の、お月さんの姿がほぼ消えている(昔、天体望遠鏡で遊んでいた時、新月をのぞいた時、うっすらとその月影が見えることに、そうだよなと腑に落ちたことを思い出した)その状態を毎月1日と決めているから、15日頃が満月でそれでだんだんと欠けていく様子で、もう今月もあと何日だよなぁ、と思っていること、月の満ち欠けが暮らしと直結している。だからしてお月さんの満ち欠けというか、月の存在が今とは比べることができないほどに大きい。まして電灯などというものはなく、多くの民にとって明かりは貴重品で、だからして満月の夜には本も読めるほどということも、とても納得が行く。ともあれ今も昔も人の世だからして、情報というものには敏感だったろうということは分かる。そうでなければ物語、文学というものも成立しないからだ。しかしながら比べることなどできようもないが、ついこう言ってしまいたくなる。スマホでラインなどで瞬時に交換、または縛りあっている世界と。思いを和歌にしたためて相手に送り届け、その返事をじっと待っている世界の中でのお月さんの姿、それはある種神概念に近いようなというのんか、尊きものだったろうな。そこのところがいまの我らとの決定的な違いであるようだ。

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初雪

2019-12-07 17:43:24 | 日記

 いよいよ雪です。雪が降り積もったのですが、まだ落葉は終わっていない。こういうものは雪が降ったからといって急に落ちるものでもないらしく。楢の木の葉っぱたちの上にも雪が被っていて、なんともの光景だぁ。今日夕方迷犬と散歩する矢先虹が出ていた。今日も晴れたと思っていたら、霙だの雨で、その合間に虹が見事に出ていたのだ。このところの写真を。

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