草刈り機やチエンソーで大まかにやることは、
ほぼ終えて、いよいよ手で草刈りを。
これは、小学校の時からやらされて来たことも
あって得意である。悪ガキでしょうがなかった高校の
時も、ある意味するしかないと言うか。誰も変わりをやるものが
いないし。それに嫌なんだけど妙に気持ちいい。とでもいえばいいのか
なんだか一人だけの空間をそうやってたのしんでいたようにも思う。
ここのある藪のところを先日草刈りをしていたら、
クチナシの花が出てきた。それも唐突に出て来たので、おう!
と言う感じだった。そこに蕾のある小枝があったので花瓶に
さしていた。今日それがうっすらと開いていた。携帯の方では
撮れたのだが、こちらに載せることができないでいる。
龍昌寺の荷物を整理していたら、内山老師からのお便りがあった。
1981年10月28日のお便り
「結局修行の根本的ネライは自受用三昧、ーつまり「自己自身になる」だけです。
娑婆の連中の多くは、いつも他とのカネアイでの、自分の着物だけを
みているだけ。それに反し、本当の「自己の生命の実物」になることだけが
修行の根本であり、そのような環境をつくって自らとびこんでいった貴方自身を、
貫いて下さることを祈ります。」存外長い、細かい字で3枚にわたって
綴られている。このお便りを頂いたことは、はっきりと覚えており、
その時のこちらの受け取り用は、そんなことはさんざん口頭でも本でも
示されており。こちらに向けて何かもう一つを言って欲しいと言う印象だった。
今読み返せば、老師とすればお忙しい中、最善を尽くされたんだ。これ以上
何を言えばいいのかとさえ思うが。若さというのか、今でも変わりないのか、
自分にだけ言って欲しいという自分自身でも訳のわからぬ甘えなのであろうか。