雨降り

2019-08-31 21:02:27 | 日記

 お盆から以降、雨降りが続いている。最初の間は、この夏は暑くてよく乾いたから、少しぐらいは降らないとなどと、楽観。そういつでも楽観したいのだ。何かことが起きることを想像することも、日常というやつは拒むのだ。自ずと拒否することで、安心を得ているのだろう。だから、唐突に何か事故が起きた時、まさか自分が、とか、このタイミングで、などと思うことになるのだ。  なんのことを話そうと思っていたのだ、?。うん、大根やカブなどの種蒔きしたものが芽がきれいに揃っている。白菜の定植したものも順調に育っているのだ。が、この時期のこの雨降り、なんとも心配なのである。適度に晴れ、適度に雨が降る。そのありようが、年間の野菜暦をおのずと作っているのだ。その自然の恵みに合わせて、野菜を開発し発展させてきたのだ。野菜たちの歴史も1万年ぐらいも続いている。だから少々のことでダメになったりはしない。がそれにも当然のことながら、限度というものがある。「お前たちはほんとうに辛抱強いなぁ」と、今日その野菜たちをほめてきました、だ。

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晋山式のこと、再び

2019-08-28 21:08:46 | 日記

 晋山式のこと、お陰様で無事予定の額に達しました。ほんに多くの人に支えられてあることに、あらためて熱い思いをかんじました。ありがとうございます。雨降りが続いております。農作業の合間を見ていろんなところの修理などに、かかっております。この地に入って40年、建物などの痛みが目立ってきました。瓦屋根なども手を掛ければいいのでしょうが、今回はそこまで手が回りそうにはありませんが、出来るところはこの際しなければ、なかなか出来る事ではないなぁと思います。仕事のできるメンツが揃っていることが、大きい。そして普段ならお金をあまりかけないでしようとするものだから、どうしても半端なことになってしまう。それがお陰で、そこに相応の費用をかけることができることがうれしいのです。ありがとうです。

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白菜定植

2019-08-27 21:09:37 | 日記

 先日来から来客があいついであり、今日は3歳の女の子を連れたご夫婦。いわゆる高齢出産のせいでしょう。この女の子がともかく可愛くてたまらない様子。その女の子が中心にこちらも動いていました。そんな来客続きだったのですが、ちょうど雨降りの合間のような日々だったので、昼間の青空のもと、最初は玉葱の種蒔きを、次の日は大根や蕪、野沢菜などを。そして昨日は白菜の定植を。さいわい料理人の息子が手が空いており、彼と共にこれら冬野菜の準備をしたのでした。ここでは大根や白菜の無い冬など、考えられないのです。それに、市販の野菜を買うという発想もないのです。別段特別のこだわりがあってそうしているわけではないのですが、もうスーパーに並んでいる野菜は買えなくなってしまったようです。なんとも贅沢なことと思います。

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与謝蕪村

2019-08-22 21:26:04 | 日記

 夏河を越すうれしさよ手に草履 与謝蕪村

この句、あの暑い日々のことを思うよね。ここ数日雨続きですっかり涼しくなってしまいました。先日から大学生が論文(お寺と人々との関係)を書くための調査に。こういう若い女の子が部屋にいるだけで、家の中は華やぐ。なにせモッサい男ばかりがうろうろしているからだ。高校野球も無事終わり、(今年も楽しませてもらいました)こちらの夏は終わったかんじです。これから大根や玉葱の種蒔き、白菜の定植といよいよ冬野菜の準備です。

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紀貫之

2019-08-21 10:53:45 | 日記

 昨日は古文の会でした。「古今集」を読んでいる。その中で春夏秋冬の歌などに続いて恋歌がある。この恋歌が思いのほど多いのにびっくり。今のこちらにも理解できるような淡い恋心から、なんぼなんや言うてこんなんありかと、思うほどの歌などもずいぶん多い。その当時「涙川」なる言葉が流行っていたらしく、涙で着物や一人寝の布団を濡らしてなどと、まことにオーバーな表現も目に着く。が、その当時公けには漢詩が主流で、その大陸で流行っただろう有名な漢詩からパクったような言葉も散見されるようで、けれど、和歌でないと細かい心情は吐露できなかったようである。それと、それが現代の流行歌や演歌の歌詞のように、実際に使うとなると恥ずかしくて言えたものではないが、共感を呼び覚ます、新しい風情を出す。そしてそれらをよく見知った歌合せの会では、互いに披露して競っていたらしいのである。そんな思いでもう一度読み直すと、何やら面白いのである。そしてその流れでいえば、この恋歌を大らかに歌うことができたのはほんのしばらくのこと、やがて鎌倉時代の武士の政権になると、それらは地下に潜るようなかんじになることを思うと、平和であることの素晴らしさ。女性が活躍できる社会の裕福さをあらためて思う。

 

 「露ならぬ心を花に置きそめて 風吹くごとに物思ひぞつく」 紀貫之 恋歌2、589

現代語訳 私はいささかならぬ関心を桜の花に寄せてしまいましたが、それ以来風が吹くたびに、花が散りはしないかと言う心配のとりこになってしまいました。

 この歌は、隠喩になっているらしく贈られた相手にしか意味がわからないらしい。そうでなくともこの短歌や俳句などは少ない言葉で、心の中の思いを複雑なまま現し、しかもそれらを相手とかけひきしながら、恋のやりとりをすると言う文化が成立していたことを、思うとなかなか成熟しているなぁと、感嘆せざるを得ない。

 

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