満月

2021-07-25 20:19:32 | 日記

 昨晩は満月だったと思う。まんまるいお月さんが、

中空にぽっかりと浮いているだけのことなのに何故だか

得したような嬉しい気分になるのだ。もう少し言えば清々し

とはこんな気分じゃないのかと、思ったこともあった。

 毛虫が大量発生したことは書いた。そのマイマイガの成虫

蛾がとうぜんのことながら、多い。ふつう蛾は、夜に光の元に

集まってくるが、これは昼間の明るい間に活発に動いている。

そのせいだろう例年と比べると、女郎蜘蛛の巣がとても多いように思う。

そのありようが自然のことわりのように思うのだ。ところがここ何年か

我輩の窓辺に夜の明かりを求めてやってくるものに対して女郎蜘蛛が

巣をかけてきたのだが、今年はそれが鬼蜘蛛に変わった。

女郎蜘蛛が巣をかける前までの長い間、鬼蜘蛛がこの場所を占領

していたのだ。彼らの間にもいろんな勢力争いがあるのだろうか。

 蜘蛛はなしの流れで、先日の毒蜘蛛マダキコマチグモ。

夏は交尾期だということも先日書いた。

それがふつうに庫裡台所の板の間で歩いているものを息子が発見、これだ!

と殺して、みんなの見えるところに置いてくれていた。

足を入れると3センチぐらいか、いかにも土の上を這いずり回っている姿。

腹の部分が黄色だからとても目につきやすい。いかにも毒蜘蛛

という雰囲気で見えれば触らないし、近づかないものだと思う。

巣をかけないものらしく普段は草むらの中にいるらしいが、この時期ウロウロするらしい。

 薪作りをしていて、草むらに手を入れたり、積んである薪材を切るべく

持ち上げて並べたりするときに、どうしてもその蜘蛛のことが気になる。

あんなふうにふつうに見かけるものだと認識してしまうと、

それはそれで怖いことである。いずれにしてもいのちということや

自然ということその都度分かったような顔してやり過ごしているが

じつはほとんどと言っていいくらい知らないものとしてある、

ということにあらためて思うのだった。

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毒蜘蛛

2021-07-14 21:27:15 | 日記

 一昨日庭の草取りをしていた。紫陽花の中からスッと

伸びている草を引き抜こうとして草を摘んだ時、ちくっとして

あっ何かに刺されたなぁ、と。その取った草を片付けた頃から

痛みがぐううーんときて、これはやばいと家に入って消毒薬を

吹きかけた。そう、あのキイロスズメバチに刺されたことが

ある方ならわかると思う。ちょっとまともに声が出ない感じ。

連れ合いがその尋常でない姿に驚いて、田んぼに行ってる息子を

呼ぶ?近くの病院に行く?と声をかけられるが。

病院は苦手、しばらく様子を見ると。言い残して部屋に

パソコンを開いて毒虫のところを検索してみる。

セアカゴケグモぐらいが出てきたが。1時間ほど経つけれど

痛みは治る気配はなく、キイロスズメバチなら鋭い痛みは30分

ほどだったかと、後はアレルギーショックの方が強い感じ。

しかしこの痛みは今まで経験がない痛み、鈍痛という言葉は

あるし、経験もある。これは違う、言えば鋭痛なのだ。

その鋭さがぐうぅーんときたままなのだ。なんかね、これはだめだ

という感じで、車を自力で運転して市民病院にもう時間外だから

すぐ対応してくれたが、虫刺されということが分かっても何かということが

わからないから、対処の仕様が無い感じで、ステロイド剤と痛み止めを

もらって帰る。家に帰る時そういえば、同じ寺内の同人がとんでもない

毒蜘蛛に刺されて大変な目にあったことを思い出し、電話。

症状やその時の様子などを聞いて、おぅそれそれ。

カバキコマチグモ日本在来種最強の毒を持っているとのこと。

これに対処する血清などはないとのこと。2日から1週間ほど

痛みは続くとのこと。件の女子は、ともあれ痛くて座っていること

もできなくて、家のなから外をと手を抱えたまま動き回っていた

とのこと。わじゅさんともかく私は12時間痛みは消えなかったわ。

と。そうか12時間。おれは4時だったから明け方の4時までなんだなと

了解して布団に入る。しかしながらその鋭痛(こんな言葉ないと思うが)

まことにそうとしか言いようがないくらい、ぐうぅーんと痛いままなのだ。

風呂に入ることが唯一の趣味だなどと公言している輩も

さすがに湯をかぶるだけで済ませ、湯上がりに一杯飲む甘水も

飲む気にもならず。食い意地のはったこれが卵かけご飯だけを

流し込んで布団に入り込んだのだ。で、ともあれ目を瞑ってその

襲ってくる痛みに観念したまま布団の中で声にもならぬ声を上げながら

のたうち回っていると、その左手の手首から上が紫色に染め上がって

パンパンに腫れ上がっている感じで、急いで跳ね起きて電気をつけて

見るが、少し腫れている程度で他人から見るとほとんど

わからないぐらい。その時点で9時。まだ7時間あるんだなぁと

思ったらこりゃ眠るどころじゃないのだ。とようやく納得して

本を広げる。時々その鋭痛にも波があり、時としてそのぐうぅーん

に輪をかけたような感じで痛みはくるから。その時は布団の上で

のたうちまわり、という感じ過ごすも一向に痛みはおさまらない。

12時間の目安が過ぎても変わらずで、そんな中その痛みのまま疲れて

しばし眠った。朝食の8時にまだご飯どころじゃないなぁと思った途端

味噌汁の匂いが2回の部屋まで流れてようやくあっ、ご飯食べように。

結局24時間経過の4時ごろから痛み慣れというのか、左手首はまだ痺れも

痛点もさほど変わらないが犬と散歩に行き風呂に入り、この日は来客二人が

来られて冷たいビールがうまいとやっているうちに、緩和。

 今もまだ左手の刺された指先に痺れが多少残っているが。

ともあれ、日本全国どこにでもいる蜘蛛であるらし。この夏場が交尾期

であるらしく危険であるらしいが、蜘蛛自身から攻撃することが

まずないから、あまり知られていないとのこと。

いやはや、もうその夜中にうんうん言いながらなんだか

自分のこの姿に笑ってしまうしか手がない感じで、生きているということは

いろんなことを経験させてくれるもんだと、納得した次第。

 

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無内容

2021-07-04 09:07:19 | 日記

 桑原武夫、その当時の大家である。

戦後しばらくの頃、俳句は素人のものも大家の句も区別がつかぬこんなものは

芸術とは呼べない。強いて呼びたいならば第2芸術論とでも呼べばいい。と

物議をかました。そのことが長く波紋を広げた時期があった。

それで歌人でもあった釈迢空が、そのことに対して論じていることを

山本健吉(「刻意と卒意」)が紹介してくれている。

 釈は近代文学の考え方に基づいて短歌は、文学的動機を持っていない

ということで「文学以前」「無内容」「非文学」と書いている。

その無内容をこう説明している。

私たちは日頃、音から声、声から言葉という方向へ向かって、

言葉と意味の支配する世界に住む。

しかしながら本当は言葉から声へ、音から音以前の世界なのではないか。

意味ある方向ではなく「いのち」や「たましひ」を具えたものが価値で、

そういう全体的世界が俳句や短歌である、と。

 それはこちらの言い草に惹きつけて言えば、わたしを生きているのは

意味や価値ではない。

今仮に「いのち」や「たましひ」などというが、もっと人では掴めないもの

それがたとえ自身のやるせなさや寂しさ、辛さ、楽しさであろうとも

そのそれをおのずと現していることの豊かさがあるとおもう。

それにもう一つ言えば、俳句にしろ短歌にしろ素人と歌人では

もうまるっきり違うということが少し分かりかけている。

それは歌として出来がいい、悪いよりも歌のもつキレというのか、

読ませるものを持っている。つまり詩になっているというふうに思っているのだが。

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