床土作り

2012-08-31 22:10:30 | 日記
 今日は床土つくりなれど、電線工事などいろいろあるし、などと
思っていたけれど、お声がかかり床土作りに。これは先月、
西川さんと山から赤土のざれたものをトラックで、持って来て

それをビニールハウスの中で乾かしていたのだ。それを来春の
稲の苗床として使う為なのだ。今日の昼も文句無く晴れ上がり
まさにギンギンのお天気、いやはやすばらしいのだ。

 うん、それから今晩ようやく鈴虫初鳴きです。こちらは
ほんにすばらしいです。
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白菜定植

2012-08-30 21:03:04 | 日記
 今日は昨日中途に終わった、水道なんとかして出た。江崎の
遊子さん喜んでくれて冷たいビールを持って来た。けれど、昼
からも水道関連でやることはまだあり、電気の配線のことなのだ

それで、そういうことに詳しいSさんに夜になってようやく連絡
がとれて、それはもう明日だ。
 白菜の定植連れ合いとなんとか100本植えた。肥料をやって

苗が小さいあいだは、虫の被害が大きいものだから畝にネットを
かけて、終わったらもう暗くなるところだった。
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ツルハシ

2012-08-29 21:47:37 | 日記
 ツルハシという道具をご存知か。砂利だらけの土や道路を掘るに
はこれが最適なんだ。ユンボで車庫の為の整地をしたとき、水道
パイプを引っ掛けてしまったんだ。水はすぐ復旧したのだが、

ちょっと小高いところにある、江崎家の水が未だにでないと。
折しも、昨日そこの次男青が帰って来ており、早速青と二人、
家の方から、だんだんと掘り下げる作業を。道路やそのあたりは

砂利だらけで、それでツルハシの出番、というか一日振り回して
いたんだ。けれど結局わからず明日に持ち越しなのだ。このからだ
に残る疲労感、筋肉痛、ふんと、どうしてくれようか。
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般若心経、35。

2012-08-28 21:48:30 | 仏教
 だれでもほんらい真理そのものを生きている。なれど、人は
いつもことばを、思いを生きている。だから悟り(真理に到達
した人)はあっても悟った人はいない。

 いまは言葉だけであっても、だれでもが真理そのものを生き
ているから、アッそうかとふに落ちることがある。すぐ忘れる
けれど、自らに問いがあればすぐ落ちる。そのぶんかんちがいも

もちろんしょっちゅうである。
 本文、故に知るべし、般若波羅蜜多は、
これ大神呪なり、これ大明呪なり、
これ無上呪なり、これ無等等呪なり、
よく一切の苦を除き、真実にして虚しからず。
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般若心経、34。

2012-08-25 20:53:26 | 仏教
 菩提薩埵、略して菩薩はふつう悟りを求める人という。けれど、
悟りという言葉だけが一人歩きしているようすである。悟りとは
真理に到達した人。

 真理ということがどこかにあるわけではない。いのちを生きて
いるという事実そのもののこと。こんなことは誰でも知っている。
そうなのだ知っているということと、解るということはまったく

べつのことです。わたしはいのちを生きている。だれでも知っては
いるが誰も知らないのである。わたしたちが大事にしているのは
いのちはたいせつなものであるというわたしの思いが大切で、

いのちを大切にしているどころかあらゆるいのちたちを踏みにじる
ようにして暮らしているのがほんとうのところではなかろうか。
わたしの見える所だけ、思うことが出来るものだけ、それもほんの
一瞬だけ大切と思っている。

 いのちとはたんに生命そのものだけではなく、ことばや
ものもいのちなのだ。
 真理とは、大いなるいのちそのものに生かされている御身で
あった。という事実そのもののことをいう。悟りとは、その事実
いのちのありようにふれる、気がつくことをいう。

このあたりまえさはいつでも見失う。このありよう
そのものがすでにわたしはわたしでないがゆえにわたしである。

つまり空である。だれでも本来人は真理そのものを生きている。
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