大掃除

2013-12-29 22:37:57 | 日記

 普段の掃除、手を抜いているつもりはないけれど、決まったところしかしないものね。本堂などそんな汚れることもないようなものなれど、本尊さまから順にみがく。

 そういえば、まだ幼かったころからこの大掃除は思い出がいっぱいつまっている。金沢にいたころ二つのお寺だったこともあって、なにか大変だった。それにあの頃は障子も全部張り替えたものね。兄貴たちの手伝いで覚えたから、今では障子の張り替えは、もうこちらの仕事で、昨日も娘とやったのだ。

 お寺の、霊屋の掃除は暗くて足が冷たいし、水も冷たいし(ここでは風呂の残り湯を使うから助かるものね)漆器類が多いからがさつにやると、雑巾がけの跡が残るから丁寧にしなければならないし、うん なかなかたいへんだったことを想いだす。けれど、そういうことやお墓や庭などの草むしりの根気のいることをやった御蔭でいまなにをやってもそんな苦にならないものね。あーいうことって、身体で覚えたことと言うのは大きな財産になるんだなぁ。

 

 

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山水

2013-12-28 20:16:20 | 日記

 いつもお世話になっている在所の婆様から電話あり、和尚さんおらの家の水道がでんがになったんよ。水道屋に言うたけれど、仕事に出かけているとかでだめやちゅうし、和尚さんわるいけんどお願いできんやろうか。とあったのは、昨日の午前中だった。話を聞けば水が出んようになったのは二日前らしい。

 はいはい、わかりましたよなどと気安く引き受けて、出かけたもののその家から水源地まで2㌔程離れた山の中に行くも、なかなかわからず、パイプのなかにゴミでもかんでしまったのか、パイプを掃除する5、6mほどのワイヤーを入れても状况はは進展せず昼過ぎに。来客来ているし、ある書類を書かねばならないしで「ばあちゃん、これパイプを中途で切らんとわからんし、おれちょっとすることあって明日やぞ」などというたら、それで十分やわいね、水のことは~川で汲んであるしだいじょうぶやぁ~。と

 今朝一番にかかる。水源地のところは、水が出た。けれど、家の裏手にあるタンクに入って来ない。それで水源地の方から順に追いながら、その2㌔ほどの長さのパイプを調べる。ようやくタンクそばの5m手前までたどり着き、その最後のところでなにをやってもタンクに水が入らないのだ。それで、タンクに直接いれるタンク側のパイプを切って見た。何と、そのタンクに入れるその間際のところだけが凍っていたのだ。

 3時間ほど、色んな道具などを取りに寺へ何遍も往復してのあれはいったいなんやったのかと言うくらいあっけない幕切れでした。

 そのおばあちゃん、寒いから家に入っとってというた時は入っているけれど、またしばらくで出てくる。わたしゃ和尚さん、あんたがこの寒い吹雪いている時に1人でやっておるがに、わたしゃ家におれと言われても気の毒でじっとしとれんげやわいね。などという。

 まことにこんな情けある態度、今どきの人には真似できないなぁとしみじみおもいました。こちらこそばあちゃんありがとうございました。

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インタビュー

2013-12-27 20:28:06 | 日記

 ミラーさんが久し振りに友人を連れ立って来られた。12人の人たちにひとつのテーマでインタビューをしてそれで、本にするとか。それで着いた夜からさっそく、マイクフォンをはさんででの会話であった。

 妙なもので、マイクフォンをはさんで聞かれるとこれまでは正面から聞きにくい事も、きっぱりと問われており、もちろん質問者の力量で内容は決まるから、用意周到なミラーさんは二泊三日の間中あの手この手でこられる。それがこちらにも新鮮で楽しかったなぁ。

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餅つき

2013-12-22 20:59:33 | 日記

 昨日は味噌仕込み。今日は餅つき。昨日今日とどれくらいの人が集まっただろうか。人が自然と集まりて、何や知らんその場を共有していることがうれしい。

 今日の餅つきは、若者がずいぶんたくさんだったから、それはそれやはり活気があって、ロックの音楽が流れて腰などをふりふりしながら、餅つきである。ともあれ笑い声がそこら中に広がってここの90になる義母さんも村から来た80のばあさんも目を細めてにこにこしている。

 なんだかね、そんなあたりまえの光景がうれしいよね。

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ベルクソン

2013-12-20 21:29:23 | 日記

 れいによって唐突にベルクソンの「道徳と宗教の二源泉」のなかから引用する。

キリスト教神秘主義のところから、頁282。

 「神は現存し、歓喜は無限である。−中略ーそれ故、この魂の生活はまだ神的ではない。この魂は、このことを知っており、このことに漠然と不安を感じている。そして、休止のなかのこうした動揺がつまり我々のいう完全な神秘主義の特徴である。ーすなわち、こうした動揺の表しているのは、飛躍はもっと遠くに達するために為されていたということ、たしかに恍惚は見る能力と感動する能力に関連しているが、しかし、意欲もまた存在しており、この意欲そのものもまた神に復帰せねばならないだろうということ、である。こうした感情が場所全体を占有するほどに増大した場合には、恍惚は消え去って、魂は再び孤独になり、時には憂いに打ち沈む。魂は、しばらくの間は目もくらむほどの光に慣れていたので、暗がりではもはや何も見分けがつかない。それは自分の内部でひそかに遂行されている意味深い仕事を理解しない。魂は、自分は多くのものを失ったと感じ、多くのものを失ったのは総てを得るためであることをまだ知らない。偉大な神秘家たちの語った『暗夜』はこのようなものであり、そして、恐らく、それは、キリスト教神秘主義のもつ最も意義深い、ともかくも最も教示的な側面であろう。」

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