時折ある方から電話がかかる。今日も1時間近くお話を聞いていた。病状的になんと診断されているか、よくは知らないが、おそらく強迫症にかかっている方だと思う。これからの大事な進路を決めるのに、こっちに行くと決めたのにもかかわらず、土壇場になって困っていると言う。もうアタマが混乱してしまって、自分では何も決められない。オーバーヒート状態だと言う。あわてるようにして、今のこの思いを誰かにともあれ聞いて欲しいと切実である。自分のことはよくわかっている。こちらからなにか気の効いたようなことを言わないようにして、そのアタマの混乱状態だけを聞き取る。すると、次第にみずからこんなことで悩んでいる自分のどうしょうもなさ、小ささに呆れ、そんなことを聞いているこちらにも心配りをしてくれる。しずかに聞きながらこんなに混乱しながらよくぞ、もちこたえられていることにすごいなぁと、そのままのこちらの思いを伝えると。こんな決められないままでもいいでしょうかと言う。うん、そんなことだれもほんとうは決められない。決められないまま、いつも決められていくことに不安を感じないままやってしまうのが、ぼくたちであなたはよく耐えている。それだけでも、すごい。と素直に思ったなぁ。
親鸞さんを読んでいて、どきっとするのはたとえばこういう文言に出会うときである。
「悪性さらにやめ難し、心は蛇蝎(ダカツ、へびさそりのこと、人が恐れ嫌うこと)の如くなり」
わたしが悲しいというのは、自分が思う通りにならないことや、子どもに先立たれたとか希望を失った。の悲しみである。けれど、親鸞さんは悪性さらにやめがたい自分を悲しんでいる。ここは自分ということを超えて、人そのものを悲しんでいることになる。自分が悲しんでいる。のはこちらの得意とするところだ。けれど自分を悲しむとは、自分を突き放している。ぼくだったら、そこまでとうていこれを見つめることができない。適当に、自身に折り合いをつけてしまっている。これが親鸞さん80代のことだから一層おどろく。
一心に商売繁盛を願ってお参りすると、それがちゃんと叶う。とか、どうかこの病いが治りますようにと、懸命にお祈りすると、平癒する。とかいう話、いわゆる既成教団は、はなはだ疎い、弱い。それは、基本的に仏教の概念としてそんな内容そのものを否定するからである。概念的に言えば、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静という三宝印が示されていることは、わたしというものの実体はない。ということなんですから。
でも実際に私たちの身の回りで起きていることで、それでさもいかがわしい霊感商法から、天理教などのちゃんとした教団まであたかも取り揃えてあるようだ。事実そこにかかって末期のガンが治ったりということもある。それらの事象はやはり現実に起きている。
それこそ最愛のものが重い病いにかかったりすると、わらをもすがる思いで入らざるを得ない。人というのは思いで生きている。この思いが集中すると、人はとんでもない力を発揮する。つまり気が充実する。反対に言えば、たとえば心臓の不整脈が急に具合いが悪くなって、病院に入院する。すると、悪いのは心臓だけなれど、気が病むからたいがい病人になってしまう。そう、気が病むのだ。で、一心にこれまでの自身のプライドなどをかなぐり捨てて、お祈りすると、うまくあえばそれだけで重い病気も治る。そこまではいい。そこから先の話をしたい。そうやって快癒すると、そのありように驚く本人やまわりのものたちは、その現象に惑わされるから、さもそこのマルマル教の神さまがえらい効いた。と信じることになる。つまり思い込みを強める。そういう教団は、じっさい世の中にたくさんあってそれぞれ繁盛しているらしいから、それぞれの神さまがそこそこ当るのだ。ということは、神さまや教団の教えということより自身の思い込みが強くなって気が充実し、おもわぬ力を発揮することが原因である。しかしわたしたちはどうしてもその時の現場の霊験あらかたな外側の力に幻惑されて、いっそう自分というあり方を狭く、窮屈にやってしまうこともしばしばである。
でも結論からいえば、その人に見合う形で問題は起き、その人に見合う形でしか解決の方法はないということからすると、たとえたちの悪い霊感商法に引っかかったとしても、それが現在ただいまの自分のすがたであると認めることができるならば、よき学びに出会ったことになる。
アブラハムのことを書いて、このつづきはまた明日だぁ、と書いたんだ。それがいい加減なものだから、昨晩は古文の会があってできなくて、さぁ今日になって、えーっとなんの問題だっけという始末だから、こりゃあかんねぇ。
たとえば、道元さんならば、(ここのところは『日本的霊性」からの要約です)『仏といえば、自らが知っている範囲の仏で釈迦・弥陀などをイメージする。そうではなく、師匠が仏とはガマやミミズだと言われたら、おのがもっているイメージとしての仏は捨てて、ガマ、ミミズを仏としなければならぬ」と、親鸞さんは今度は弟子の立場から、「わたしがお念仏をするのはただ師匠が、お念仏しなさいと言われるからで、それでわたしがたとえ、地獄に堕ちようが、極楽にいこうがそれはもうわたしの範疇を超えていることです。」と、同じく自我を否定するのもずいぶんと違うと思うのですが。
鈴木大拙の『日本的霊性」を読んでいると、自己否定とか自我が破られるということばが飛び交う。自我が破られて初めて自身の霊性に気づくと、言われる。それはそうだ。言葉や理屈で自分のことをつかまえようとするが、それはあくまで自分の知り得ているこれのことである。どうあっても自分という範疇を超えることはできないのだ。なにかそこには契機が必要である。旧約聖書の有名な下り、アブラハムが百歳になってはじめて子どもを授かった。その一人子を、いけにえとして差し出しなさいと神から宣告される。アブラハムは刃物を取って殺そうとするその時、主の使いが天から彼を呼んで止める。『神を恐れるものであることをわたしは今知った。」と。この自我否定は個が確立している西洋世界ではそうだろう。けれど、道元さんや親鸞さんのありようはまた違う。そのことはまたあしただ。