今日は冷えました。植木鉢、雪に埋もれる前に軒下に、剪定するものもあり1日がかりでした。この3、4日で急に冷え込み、いっせいに楢の木の落葉が始まりました。落葉するのももちろん個体差はあり、桜などは一番早く早々に散ってしまいます。楓なども日当たりのいいところや、日陰のところでは随分と違います。それぞれ境遇の文句などをいうこともなく、そこでカエデをやっていること、なんだかエライなぁとつい我が身と比べて思ったりします。夜の星座のきれいなこと、昼はずっと曇っていたのに夜になって晴れだして、お陰で星たちがキラキラしています。
そう紅葉がまだ続いているのだ。暖かい。例年ならばこの時期、毎日時雨れており、そうやって霰や凍雪が殴りつけるように襲ってきて、その合間を縫うように沢庵用の大根を干すのだ。霜が降りることで、大根の旨味が差すと言われるからそうしている。ほんなものだからいまだ大根を干していないのだ。
今日遼雲が金沢で中川一政の書展をやっているから見に行かないかと、そんなこと彼も興味あるのかと、その思いにつられて皆して。20年ほど前になるが県立美術館でやはり一政展をやっていて、これが初めてではなかったが。なんて言うのだろう。96歳の時の書や絵画がありその上手いとかなんとかを超えたえも言われぬ何かがそこにはあり、「われはでくなり つかわれて踊るなり」と浄瑠璃の木偶人形の頭の絵を入れて。「汝は帝王なり、独り生きよ、プーシキン」なにか書や絵を見ていると、昨日の続きではないが「個性」ということが自然と浮かんできた。己の欲得根性を出すことや好き嫌いの感性を増長させることでなく、どうしてもがてんがいかずにもがいているこのわれという得体の知れぬこの何者かに引きずられるかのように邁進している姿に、はいと思うた。
そんななにやら熱い想いの中でここに帰り着いてみれば、ちょうど夕焼け。その赤く染まった空に映えるようにしてここの雑木たち俺たちもあついぜ、まだ踏ん張るぞとばかり輝きを放っていた。
この頃よく耳にする言葉、「自分を大切に」。それはそうだと思う。けれど、どうも大切にという向きが、方向が違うように思えて仕方がない。個性ということを強調されるようになって久しい。それはグローバル社会と関係あるように思う。いまのこの社会では、自分のことを能力、それは収入が多いということに直結するらしい。個性を発揮しないと自分というものが埋没するように錯覚している。個性を発揮するには、自分というものを大切に。自分カラーなるものをアッピールしなければならぬらしい。そうやってわれこそは、とやるものだから、とどのつまりだれも似たりよったりになってしまい。ふつうということがわからないまま、ふつうにしようと思うものだから、なんとも変なのだ。だいたい大切にということの中身がこのわれの、感覚や感情、つまり好き嫌いの話になり、自分の思っていること思考していることが得意な、すごいことであるからなんとも始末に悪い。この自分こそ当てにならないもの、まったく誰の影響か知らないが、現代社会から汚染されるままなのに、さも自分で考え感じているように勘違いしたまま、これを自分だと握りしめている。こんなものを大切にしている先は、たんなる我儘なだけのまことにつまらぬものになっているように思うよね。
昨晩、嵐のような風が吹いていたと思ったら、霰が降っていた。それらは寝床の中で薄ぼんやりと感じていて、布団を被り直して寝たのだった。今朝昨日までの紅葉、見事だったそれが惜しげも無く吹き飛んでおり、そうだよなぁ、こういうものはそのときそのときにしか出会えないよ。と実感させて貰っていたのでした。そんな朝、いつものように諸々が終わってさぁご飯を食べようの矢先、お早うございますの声が。誰だろうと思って出ると青年である。「僕はあのー何々さんからここのことを、聞いてやってきました」とのこと。ご飯はすみましたかと聞いたところ、まだだと言う。ではと言うことになり。ともに朝食を。その青年今日は泊まるとのこと。なんて言うのだろう、彼にとってもこちらにとってもそのいっとき前まで、まったくの知らない者。それがなんの因果か、ともにご飯を食べて、それから昼頃まで彼の話を聞いて。まことに妙というのか、お寺であることのご縁でしょうか。
つい先日東京へ、2回お話し会があり、多くの人たちと会ってきました。そこでよく知っている方たちや初めての方たちとお会いしてきました。人と出会うということそのものが、あるナマの芸術品と言ったら、変でしょうか。一人一人が当たり前のことですが、それぞれの物語を背負っており、その方の顔つきから姿、形はどこの誰でもなく、紛れもなくその人自身でしかなく、それはどう言えばいいのでしょうか。一つの絵画作品のようとも、一つの大河ドラマそのものとしてそこにある。その姿に触れることでこちらに確かに響いている。圧倒的な影響を受けていることに、あらためて驚きます。いやぁほんとひとってすごい生き物だなぁ。
この時期の晴の日は、もったいないのだ。そんなわけで朝からみんなと来春用の薫炭用の乾いた籾殻を近くの農家まで取りに行った。これがないと、苗床作りやぼかし作りができないのだ。2トントラック、と軽トラに山積み貰ってくる。昼から遼雲と玉葱定植の苗床に籾殻をまく、これはうちの籾殻。それから鶏小屋の鶏糞混じりの籾殻を畑にやって新しい籾殻を鶏小屋に、冬用にと小屋に置いておく。てな訳で、今日は籾殻1日だったのだ。
日中は暖かな小春日和。楓の紅葉がそろそろピークを迎えてる。ここらの主役の楢の木はまだ時間がかかるようだ。ここ今でも楓の紅葉祭りができる感じになってきた。あと10年もすればさぞかしと思う。昔、京都で修行していた時、近くに本阿弥光悦の光悦寺があり、今でもそうなのか知らないのですが、光悦寺の裏庭が楓の木しか無く、その姿3年を通して(歩いて10分ぐらいだったと、よく通ったのだ)味わった。その結果が現在のここの姿になっていると思う。