歎異抄 36

2017-03-31 20:18:57 | 仏教

 第16章原文です。

 信心の行者、自然にはらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶にもあひて口論をもしては、かならず廻心すべしということ。この条断悪修善のここちか。一向専修のひとにおいては廻心といふことただひとたびあるべし。その廻心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまはりて、日ごろのこころにては往生かなふべからずとおもひて、もとのこころをひきかえて本願をたのみまひらするをこそ、廻心とはまふしさふらへ。

 

 本願信心の念仏者が、思わず腹を立てたり、悪いことをしたり、また同じ念仏の仲間どうしで口論したりした場合、かならず廻心(心を向けなおすこと。自力をすてて他力をたのむこと)しなければならないということ。 このことは悪を断ち善行をおこなえということでありましょうか。一向専修の念仏のものにとっての廻心ということは、ただそのとき一回しかないはずである。その廻心というは、本願他力という真実の教えを知らないものが、ある時、弥陀の智慧をたまはりて日ごろのような心がけでは、とても往生できぬとおもい、これまでのおもいを入れかえて、本願他力を頼みとすることであり、それをこそ廻心といえるのです。

 廻心と言うこと。昨日のおはなしでいえば、われが破れるということです。最初の出逢い、衝撃は大きいです。文字通り、これまでのわたしという歩みが一変するわけですから。そうなのですが、昨日も書いたように、なにもこのわれというものが、別人になったわけでもなく、相変わらずの唐変木といいましょうか。ボンクラはボンクラで変りようが無いのです。かえってへんな手あかがついてしまうこともしばしば起こり、そのたびに素心にもどらなければならないようです。

 春は花の季節です。いまここではフキノトウの花がそこらじゅうに咲き誇っています。それもじっくりと、つきあうと、うーむと唸ってしまうものなのです。が、なにせそこらじゅうに溢れているものですから、あまり感動はないわけです。3年前に村の婆さまから貰い受けた、カタクリが蕾をつけて咲く準備をしています。毎年のことながら、いまからやはりうきうきして、たのしみにしておるのです。今日もじつは、その後どうかなとそっと見に行ったのです。なのですが、当の花自身はそのままただ、そこににっこりとおるだけです。わたし自身というものも、じつはその花とおなじくいつでも、ここでこのままにっこりと咲いているのですが、われは自分という思いにいつもひきずられて、その花を見ることができないでいるようです。

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歎異抄 35

2017-03-30 21:34:01 | 仏教

 第15章原文最後のところ。

 和讃にいはく、『金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ、弥陀の心光摂護して、ながく生死をへだてける」とはさふらふは、信心のさだまるときに、ひとたび摂取してすてたまはざれば、六道に輪廻すべからず。しかれば、ながく生死をばへだてさふらふぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいへまぎらかすべきや。あはれにさふらふをや。浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくと、ならひさふらふぞとこそ、故聖人のおほせにはさふらひしか。

 

 親鸞上人の和讃に「固く力強い他力の信心が、さだまるときをまって、弥陀の心光がわれらをおさめ護り、とこしなえに生死迷いの世界から遠ざけてくださる」と言われています。この信心が決定すれば、弥陀が救いとってくださりしこの身でありますれば、六道に迷いつづけることもないのです。ですから、生死煩悩の世界は永久に遠ざけたのです。このように知らせていることを、さとるなどと、いいまぎらわすことがありましょうか。残念、もったいないことです。浄土真宗では、この世においてはただ本願を信じて浄土にいたりてさとりをば、ひらくということを、教え頂いたことで、それが故聖人のおことばなのです。

 どこまでも、自分持ちのはなしではないこと。自力しか考えることも、踏まえることができないものが、どうして他力であるといえるのか。これはひとくちでいえば、われが破られる。ということです。しかしながら、ことばというものははなはだ厄介なものですよね。最初にこの自分というものが、破られた。という経験をすると、その経験がみずからにも他にも幅を利かせてしまい、そこで固まってしまうことも、しばしばあるようです。そうではなく、破られるなどということも、いつもその時、一回のことであれば。ぼくのもんだいでいえば、ただ坐禅していく。仏壇やかみさまにただこうべを垂れる。ということしかわれのできることはないようです。

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歎異抄 34

2017-03-30 15:35:33 | 仏教

 第15章原文つづきです。

 いかにいはんや、戒行慧解ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覺月すみやかにあらはれて、尽十方の無礙の光明に一味にして、一切の衆を利益せんときにこそ、さとりをひらくとさふらふなるひとは、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相、八十随形好をも具足して、説法利益さふらふにや。これをこそ今生にさとりをひらく本とはまふしさふらへ。

 

 いかにいわんや、このわれらのように戒律を守ろうとすることもできず、知恵をめぐらして往生しようとすることもできないものでも、弥陀の誓願という大船にのって、生死の苦海をわたり、浄土の岸にたどりつけば、この煩悩の黒雲はたちまち晴れ、ただちに真実のさとりの光も満月のように照り輝き、すべてに弥陀の光明とひとつになりて、迷っている一切ものたちに救いの恵みを与えるでしょう。そのときがわれらにとってのさとりとなるでしょう。この生身のままさとりをひらくという方は、お釈迦様のようにすべてのものたちを救うために、さまざまに姿を変えてその人におうたありかたで、法を説き恵みを与えてきており、そのことがさとりというもののもとになっています。

 来世、自力、浄土、さとりということをもう一度、練り直す必要がある。唯円さんは徹底して自力でなく、他力であるぞ。と示される。それはひとつには、あたりまえのことながらこの親鸞さんの提示している問題は、その以前からあった仏教観を否定している。さとりということが基本的に違うから、修行などという概念はない。われらは時間の流れのなかで暮らしているゆえ、向上、進歩観から抜け出すことは容易ではない。それゆえ、必然的に自力にならざるをえない。努力や頑張ることで何とかなると思っている。そのことに間違いは無い。けれど、わたしと言わせているこれそのものは、けっしてわたし自身ではない。言わば、わたしを超えたもの、である。それを天と呼ぼうがあるいは神、大地などと呼ぼうがである。そのことを確認するために第1章を再録します。

 弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。ー弥陀の願いによってすでに救われている身であることを信じて、念仏をとなえようとおもいたつこころがおこったとき、ただちにどんなものでも見捨てることなく、だれでも救いとっておられる。ーこれはいつでもわが身に起こっている決定的できごとであった。ということが他力ということである。これは特別に他力などと言わなくとも、どんなものも他力にあずからぬものはいない。そこではこの身が浄土にすでになっている。しかしながらこの煩悩まみれの自我のかたまりのこれは、どこまでいっても浄土ということや、さとりなどとは遠いものとしておかれている。それゆえこのわれのできうることは、ただそのまま念仏もうしあげることのみ。その結果、地獄に落ちようが極楽浄土にいこうがわれの感知することではないものとしてある。その意味では、来世にしか浄土はない。と言われるのも、むべなるかな。とおもうのです。

ここのところは、まだまだ整理する必要がありますね。

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歎異抄 33

2017-03-29 11:54:33 | 仏教

 第15章原文です。

 煩悩具足の身をもてすでにさとりをひらくということ。この条もてのほかのことにさふらふ。即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法花一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来世の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆへなり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。おほよそ今生においては、煩悩悪障を断ぜんこと、きはめてありがたきあひだ、真言法花を行ずる浄侶、なにをもて順次生のさとりをいのる。

 

 煩悩だらけのこの身のままでさとりをひらくということ。これは、とんでもないことであります。この身がそのままで仏になるというのは、真言密教のたいせつなことで、それは手に印をむすび、口で真言をとなえ、こころに仏の姿をえがいて、身体、言葉、心をほとけのそれとひとつになるという。また身心全体のけがれを落として清浄になり、法華経の説く四安楽(身体、言葉、心、誓願)の修行により、安楽の境地を体得するものなり。しかしこれらは、みな生まれつき上品な持ち主でなければつとまらない修行で、知的観念によって到達するさとりです。これとは違って、来世でさとりを開くのが他力浄土です。この教えは無能者でもつとめることができ、その結果、人の善悪を選ぶことなくすべてのものを救ってくださる教えなのです。およそ、この世で、煩悩の罪悪を断ち切ることは、はなはだ困難なことです。それゆえ、あの真言や法華の行者でさえも、さらに来世でのさとりを願っている。

 

 さとりというものは、いったいなんでありましょうか。真言、や法華行者のさとりと、親鸞さんのえがいているさとりは、明らかに違うようです。いまだにある人たちは、即身成仏と言って、この身がミイラ化するような行法を行っているらしい。そこでのさとりは欲得や感情などから自由になって、本来の自分自身になることなのだろうか。それにたいして親鸞さんのさとりは、如来よりたまわりたるもの、言わばこの身そのものがすでに与えられている事実に帰依する。よって信心もさとりも自分持ちの話ではなくなり、未生以前の自己、本来現前の自己にたちかえることをいう。

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結婚式

2017-03-28 13:47:07 | 日記

 25日昼から、ここで二組の結婚式をしました。

よろみチルデレンと称して、ここで育った子どもたちが、自分たちで企画し、ラインで互いに連絡を取り合って、そして全国から集まりて、無事に行いました。盛大に夜の宴会も延々とつづき、それぞれが久しぶりに顔をつきあわせての、よろみ会になったのでした。その彼らも今日には帰り、お寺もいつもの静かなときを、刻んでいます。

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