第16章原文です。
信心の行者、自然にはらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶にもあひて口論をもしては、かならず廻心すべしということ。この条断悪修善のここちか。一向専修のひとにおいては廻心といふことただひとたびあるべし。その廻心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまはりて、日ごろのこころにては往生かなふべからずとおもひて、もとのこころをひきかえて本願をたのみまひらするをこそ、廻心とはまふしさふらへ。
本願信心の念仏者が、思わず腹を立てたり、悪いことをしたり、また同じ念仏の仲間どうしで口論したりした場合、かならず廻心(心を向けなおすこと。自力をすてて他力をたのむこと)しなければならないということ。 このことは悪を断ち善行をおこなえということでありましょうか。一向専修の念仏のものにとっての廻心ということは、ただそのとき一回しかないはずである。その廻心というは、本願他力という真実の教えを知らないものが、ある時、弥陀の智慧をたまはりて日ごろのような心がけでは、とても往生できぬとおもい、これまでのおもいを入れかえて、本願他力を頼みとすることであり、それをこそ廻心といえるのです。
廻心と言うこと。昨日のおはなしでいえば、われが破れるということです。最初の出逢い、衝撃は大きいです。文字通り、これまでのわたしという歩みが一変するわけですから。そうなのですが、昨日も書いたように、なにもこのわれというものが、別人になったわけでもなく、相変わらずの唐変木といいましょうか。ボンクラはボンクラで変りようが無いのです。かえってへんな手あかがついてしまうこともしばしば起こり、そのたびに素心にもどらなければならないようです。
春は花の季節です。いまここではフキノトウの花がそこらじゅうに咲き誇っています。それもじっくりと、つきあうと、うーむと唸ってしまうものなのです。が、なにせそこらじゅうに溢れているものですから、あまり感動はないわけです。3年前に村の婆さまから貰い受けた、カタクリが蕾をつけて咲く準備をしています。毎年のことながら、いまからやはりうきうきして、たのしみにしておるのです。今日もじつは、その後どうかなとそっと見に行ったのです。なのですが、当の花自身はそのままただ、そこににっこりとおるだけです。わたし自身というものも、じつはその花とおなじくいつでも、ここでこのままにっこりと咲いているのですが、われは自分という思いにいつもひきずられて、その花を見ることができないでいるようです。