初雪が降り積もってからというもの、なんともぬくいのだ今日なども少し動いただけで汗ばむくらい。そんななか15日に糀造りを百キロのお米を蒸して簡易糀室の中で発酵、担当が遼雲、懸命にやっている。さっき夕方、どうやらいいものができたと、言うていた。この21日は味噌仕込み22日は餅つきと続きます。
昨晩、古文の会でした。この会のおかげで古典を読み進めることができて、なんともうれしいことです。小野小町の名前だけはしっていた。なにせ絶世の美女なのですから。しかしながら、ほとんどのことは知らないままなのでした。けれど、こんな1首に出会うとちょっとどきっとして、何かこちらのようにぼんやりしていると、バカにされそうと言うか、すみませんとつい小声でいってしまうような、そんな雰囲気を感じさせてくれる。
色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける
現代語訳、色(表面的で変わりやすいもの)がないけれども色あせるものとは何だろう。それが人の心という名の花だったのだ。
ついでに紀貫之の歌を
夢とこそいふべかりけれ世の中にうつつあるものと思ひけるかな
現代語訳、この世はまさに夢以外の何物でもなかった。だのに、今度あの人に死なれるまでは、私はこの世に不滅の「現実」が存在するのだとばかり思っていた。
仏教では自分というあり方やこの世の様を仮有のものと表現する。普段のわれらは暮らしそのものに追われているから、夢であるとか仮にあるものなどということがまったくピンとこない。けれど、大切に思っているかけがいのないものの死に出会うと、現実というありようがいったい何なのか、この自分と言わしめているものがなに!と、問われざるを得ない。
「日本語の年輪」大野晋著という本がある。もうかなり前に読んだ本で、書棚にしまい込んでいた。古典に接するようになって、開いている。がぜんその言わんとすることが腑に落ちることばかりで、このポンコツ頭でもまだまだ鍛え甲斐があるようでこんなことどももうれしいことである。
例えば愛とか自然という言葉は、やまと言葉にはないそうである。だからどこまでいってもあいまいで、もぞもぞ、ぐずぐずするのはこちらだけの話ではなく文化の問題であったということも、何やら安心するのであった。