このところいいお天気がつづいている。青空のもと部屋にこもって本を読むのは、なんとも気が引ける。それに気持ちも拡散する。けれど、せっかくの本読み体勢カーテンで閉め切って本に向かわんとする。レヴィナスが相手ゆえ集中しないと読めないのだ。それでも、夕方近くこのボケアタマ、その曇りがない空にさらしてやる必要がある。本堂裏に本堂の屋根雪が落ちて、車庫の屋根の上に高く、それはもう本堂屋根に届いている高さで、4,5mはあろうか。そんなところの雪かきを、半袖一枚でも汗をかいて気分はいい。日差しはすっかり春の陽気で、明日から東京なれば梅の花が開いているのを、ゆっくりみてこようとおもう。
思いというものは、前述のように自分にとってプラスかマイナスかをいつも判断している。プラスならば嬉しい、喜ぶ、助かる、ヤッターである。マイナスならば、えっなんで自分がであり、困った、しまったである。
私というものを、ほんとうに生き生きと気持ちよく暮らしたいとはっきり決断するとき人は私の周りに起こることのすべてを、知らぬまに引き受けてしまっている。それは、だれかのせいや為ではなく、私がする。と決めたのである。それは「私」というものがすでに負ってしまっている罪を、それは私の罪であると宣言するようなものである。関係存在としての私には夫婦、親子、友人などが編み目のようにつながっている。多くの場合その関係になにかモンダイが生じると、幼児的には「こうなったのはあなたのせい」「そもそもの原因はあなたにある」と、まず相手を責める。少し幼児から卒業しかかる人もせいぜい「私も悪いけれど、あなたもモンダイがあるよ」と分担しようとする。それでは「私」から脱け出せない。相手はともかくおいて、悪いのはこの私であるとそのとがを全面的にうける。それは私というものは、はじめからこの思いにプラスになることをいつも優先的にめぐらすものだからである。
私は多くのことを知っている。学んでいる。それは意味という世界を生きているからである。猫や犬はどうあっても、猫や犬である。けれど、人は人だけは人であるということは何であるかを知らぬまま、私の思いにプラスかマイナスかだけを探すゆえ、迷うものとしてあり、それが苦しみになる。そこに解決を見いだそうとするとき、私のする行為はその現象や対象に対して、査定し批判し先のように「私も悪いけれどあなたも」などと譲歩して前に進めようとする。そうやって幼き頃から経験してきた。でもそのやりかたでいったんはさも解決ついたふうにやりすごしてきた。なれどそのありかたでは一向に片付かないものがここにおる。そこに人であるとは何であるかと問われているのである。
私の、人の罪をこの身に引き受ける。その時「私」というありかたが変換する。罪あるものとしてここにいるものが私であった。迷うものとしてここにおかれていたのがこの私であったと開かれることを信心という。
私というものを、ほんとうに生き生きと気持ちよく暮らしたいとはっきり決断するとき人は私の周りに起こることのすべてを、知らぬまに引き受けてしまっている。それは、だれかのせいや為ではなく、私がする。と決めたのである。それは「私」というものがすでに負ってしまっている罪を、それは私の罪であると宣言するようなものである。関係存在としての私には夫婦、親子、友人などが編み目のようにつながっている。多くの場合その関係になにかモンダイが生じると、幼児的には「こうなったのはあなたのせい」「そもそもの原因はあなたにある」と、まず相手を責める。少し幼児から卒業しかかる人もせいぜい「私も悪いけれど、あなたもモンダイがあるよ」と分担しようとする。それでは「私」から脱け出せない。相手はともかくおいて、悪いのはこの私であるとそのとがを全面的にうける。それは私というものは、はじめからこの思いにプラスになることをいつも優先的にめぐらすものだからである。
私は多くのことを知っている。学んでいる。それは意味という世界を生きているからである。猫や犬はどうあっても、猫や犬である。けれど、人は人だけは人であるということは何であるかを知らぬまま、私の思いにプラスかマイナスかだけを探すゆえ、迷うものとしてあり、それが苦しみになる。そこに解決を見いだそうとするとき、私のする行為はその現象や対象に対して、査定し批判し先のように「私も悪いけれどあなたも」などと譲歩して前に進めようとする。そうやって幼き頃から経験してきた。でもそのやりかたでいったんはさも解決ついたふうにやりすごしてきた。なれどそのありかたでは一向に片付かないものがここにおる。そこに人であるとは何であるかと問われているのである。
私の、人の罪をこの身に引き受ける。その時「私」というありかたが変換する。罪あるものとしてここにいるものが私であった。迷うものとしてここにおかれていたのがこの私であったと開かれることを信心という。
人であるということは、本人は自分は自分を生きていると思い込んでいる。しかし、自分を生きているつもりになっているのは、思いだけと言うかアタマが何故かそう思い込んでいる。じっさいよく考えれば解ることですが、自分と言えているのも相手がいればこそである。いま側に誰もいなくても、相手、他我という存在がいてはじめて成立するものとしてある。あのロビンソンクルーソーがたった1人で島で暮らせたのは、彼は孤独であったけれど、つねに社会的自我を持っていたから、暮らせたのだとベルクソンはいう。私たちがこの社会で暮らすことが出来るのは、この社会的自我を持っているからこそである。他我と暮すことは道徳が必要で、その道徳心があって人との交わりもスムーズにいく。
ある夫婦、それぞれ他人に対してはすこぶる付きの良き人なれど、夫婦という相手に対しては憎しみというか、自らの嫌な感情をぶつける対象になっている。ところが往年のパワーがなくなったのだろう、いちいちぶつかるのがしんどいせいなのだろうか、今度は無視し会っこして夫婦という絆を確認しているふうである。親子の関係でもこんな姿を見ることがあるが。この関係が極まったりして刑事事件に発展するのだと思うが。
自分というありかたは、自分のなかではいつもはっきり解っていてこれを振り回してやっているが、じつは関係そのものがこれ自身であると、開かれるとき「私は」を主体でなく相手に寄り添うという動きになってしまっている。これは幼児にはできない。きっとそれを大人という。
ある夫婦、それぞれ他人に対してはすこぶる付きの良き人なれど、夫婦という相手に対しては憎しみというか、自らの嫌な感情をぶつける対象になっている。ところが往年のパワーがなくなったのだろう、いちいちぶつかるのがしんどいせいなのだろうか、今度は無視し会っこして夫婦という絆を確認しているふうである。親子の関係でもこんな姿を見ることがあるが。この関係が極まったりして刑事事件に発展するのだと思うが。
自分というありかたは、自分のなかではいつもはっきり解っていてこれを振り回してやっているが、じつは関係そのものがこれ自身であると、開かれるとき「私は」を主体でなく相手に寄り添うという動きになってしまっている。これは幼児にはできない。きっとそれを大人という。
新聞の見出し記事で幼児化現象などという言葉が目につく。社会全体が、大人と言われる人たちが成熟することをまるで拒んでいるように、幼児化しているというのだ。それでその幼児化ということを考えてみたい。困ったときの神頼みということがある。早く病気が治りますように。大学に入れますように。良縁がきますように。家庭内が平和でありますように。などなどである。お宮さんの前では、自分の願い事はするけれど、たとえば、東北の皆さんがどうぞ落ち着いて暮らせますように、とか世界中の戦争や困っている人たちがすこしでも明るい一歩を踏み出せますようにとは祈らないのはどうしてであろうか。個人のことなら、近くのお宮さんでもきいてくれそうだけど、大きいことになるときかないとおもっているからだろうか。そもそも、この自分勝手な願い事をきいてくれるとおもっているのだろうか。病気のこと、進学のこと、結婚のことなどはどれも、自らの努力だけではままならぬものを感じて、願うのだろうか。
金沢のお寺で育った。寺にはお地蔵さまがお出でて、そのお地蔵さまに熱心にお参りされる方が多かった。あるおじいさんが、毎朝お地蔵さまの前でお参りされている姿に、なんともいえない敬虔なものを感じたことがある。なにを願っていられたのか知る由もないが、どなたでもあの熱心にお参りする姿にはなにやら打たれるものがある。それはきっと、この身を投げ出している行為なのだろう。自らの弱さ、力なさをそのままあずけている形だから、そこにひとすじの光が生ずるのでありましょうか。
幼児化のことを書いているつもりが、ずれているようだ。わたしというものはいつも自らの思いにプラスかマイナスかを瞬時に判断をして、この身の存続を守っている。とうぜんだからこの身を邪魔するもの、邪見にするものには近寄らない。信心というものは、このわたしの思いがプラスになることでもマイナスになることでもありません。わたしはといっているこれそのものが問われているのです。わたしたちはいつのまにかから自分というものを生きています。けれどじつはことばを生きていて、その言葉に支えられ、励まされ、そして裏切られ、傷つくものとしてあります。わたしというものは、ほんとうは自分という思いで囲えないもの、つかめないものとしてありますが、いつでもこのわたしとやっている世界では、わたしはわたしの思いにプラスになること、言葉をつかむ方向でしか動けずにいます。このありようを幼児化と言いたいのですが、もうすこしはなしをすすめます。
よほどのことがないかぎり、このわたしはわたしという思いの中でだけ沈殿していますが、信心というありかたが唯一このわたしを問うてきます。思いや言葉でつかめないものが、これ、これそのものといつも指し示しているのですが、わたしはそのありように一向に気ずかず、自らのつごうよきふうに流れています。このわたしを邪魔する、邪見にするものがいて、ようやくわたしが真剣に問われます。けれど、それが身内のものであれば、無視したり、または憎しみ会ったりします。(これも、いじめと同じく幼児化です)妙好人であられた助田小芳さん、あるとき「私をこれまでお育ててくださったのは、あろうことか私にとって良き人ではなく、この私を邪魔するもの、邪見にするものがほんにお育てくだされたと、それはわたしの我見を折るからであると。私にとってはこれほど辛い、イヤなことはない、無視したい。けれど我見がおられてはじめて、私に立ち返ることができたと、そしてそれは人であるかぎりいつでもためされていて有り難きことである」と。
金沢のお寺で育った。寺にはお地蔵さまがお出でて、そのお地蔵さまに熱心にお参りされる方が多かった。あるおじいさんが、毎朝お地蔵さまの前でお参りされている姿に、なんともいえない敬虔なものを感じたことがある。なにを願っていられたのか知る由もないが、どなたでもあの熱心にお参りする姿にはなにやら打たれるものがある。それはきっと、この身を投げ出している行為なのだろう。自らの弱さ、力なさをそのままあずけている形だから、そこにひとすじの光が生ずるのでありましょうか。
幼児化のことを書いているつもりが、ずれているようだ。わたしというものはいつも自らの思いにプラスかマイナスかを瞬時に判断をして、この身の存続を守っている。とうぜんだからこの身を邪魔するもの、邪見にするものには近寄らない。信心というものは、このわたしの思いがプラスになることでもマイナスになることでもありません。わたしはといっているこれそのものが問われているのです。わたしたちはいつのまにかから自分というものを生きています。けれどじつはことばを生きていて、その言葉に支えられ、励まされ、そして裏切られ、傷つくものとしてあります。わたしというものは、ほんとうは自分という思いで囲えないもの、つかめないものとしてありますが、いつでもこのわたしとやっている世界では、わたしはわたしの思いにプラスになること、言葉をつかむ方向でしか動けずにいます。このありようを幼児化と言いたいのですが、もうすこしはなしをすすめます。
よほどのことがないかぎり、このわたしはわたしという思いの中でだけ沈殿していますが、信心というありかたが唯一このわたしを問うてきます。思いや言葉でつかめないものが、これ、これそのものといつも指し示しているのですが、わたしはそのありように一向に気ずかず、自らのつごうよきふうに流れています。このわたしを邪魔する、邪見にするものがいて、ようやくわたしが真剣に問われます。けれど、それが身内のものであれば、無視したり、または憎しみ会ったりします。(これも、いじめと同じく幼児化です)妙好人であられた助田小芳さん、あるとき「私をこれまでお育ててくださったのは、あろうことか私にとって良き人ではなく、この私を邪魔するもの、邪見にするものがほんにお育てくだされたと、それはわたしの我見を折るからであると。私にとってはこれほど辛い、イヤなことはない、無視したい。けれど我見がおられてはじめて、私に立ち返ることができたと、そしてそれは人であるかぎりいつでもためされていて有り難きことである」と。
一日吹雪だった。というか今も吹雪いており、いやはや状態である。昨日は、晴れておりそのなか娘たちは雪だるまやかまくらを作って、冬の、雪を九州娘たちは堪能したのでした。夜は深夜半まで喋り込み、今朝は朝早くに弾くんが兄ちゃんぶりを発揮して金沢まで見送ったのでした。夕方には除雪車が来てくれて、これで明朝出るものは安心ですが、今も冷えており、ポンプが凍らねばいいがなどと心配するような、冷え方吹雪き方です。見なさまも風邪などにご用心のほどを。