第9章原文ですが、ここも長いので半分にします。
念仏まふしさふらへども踊躍歓喜のこころのおろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまひりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらふべきことにてさふらふやらんとまふしいれてさふらひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円 房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり。よろこぶべきこころをおさへてよろこばせざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願はかくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。
この章おもしろいところです。唯円がこれまで誰にもいえなかった心のうちのことを、親鸞さんにお尋ねしている。それほどに大事な念仏であるのに、じっさいに念仏しても、躍り上がるようなうれしさも歓びも、ちっとも湧いてこないのはどうしてなのでしょう。それに、この悩み多い娑婆なぞで暮らすより、浄土へ早く行けばよいものと思いますけれど、そんな気持ちが出て来ないのはどうしてなのでしょう。それに応えて親鸞さんは、おう、唯円もそうなのかじつはおれも前からそう思っていたんだ。これはあらためて、考えるに、天に踊り地に踊るほどのよろこびが湧いてこないのは、かえって往生はまちがいないと思っているんだ。よろこびが湧いてこないのは、煩悩のせいなんだ。このことを仏さまは知っておいでで、だからこそこの煩悩だらけのわたしを、そのままで救ってくだされている、絶対他力がはたらいているということの、明かしであり有り難いことですよね。と。
これはこちらのことでいえば、毎朝冬の間なら暗いうちに起きて、暗がりのなかで夜明けを待つようにして坐っている。だれかほめてくれるようなことでもあったり、また自分でもなかなかいいかんじだわいなどと思っているのなら、そうはおもわないだろう。ところがだれもほめてくれないし、何十年と坐り込んでいても相変わらずボンクラはボンクラのままで、なにか坐ることが上手になったということもなく、加齢とともに膝やら腰がなどというしまつで、まったくしまらない。それまでしてなんで坐るのかと、自分にたずねてみてもなんだかね、わけわからない。しいていえば老師がともあれ坐りなさいと言われたことが、大きな機縁になっている。もうひとついえば、ここに意味も理由もことばさえも通じないこれは、どこまでいっても愚図りたい(意味や言葉を探している)これをこのままに、はいと言わしめている。そこはいいとか、いやなどと言えないところだとおもっています。