選挙のことなど

2021-10-31 21:37:17 | 日記

 なにを書きたいのかわからないまま、書き出そうと思う。

稲刈りが終わって1週間がたった。

けれど、なにやらせわしくむたむたとやっているうちに時が過ぎている。

うんまず選挙のことから書こうか。今日も来客があり、夕飯をともにした。

選挙の結果がどうなったか心配だという。ここの若者たちをつかまえて選挙に行きましたか、

と優しく尋ねていた。こちら昼の間皆して投票してきたのだ。

で、その彼自公政権は困ると語り出したがご飯中ということもあり、若者たちは聞いていない。

そんな決まり文句をここで言われても誰も反応のしようがないのだ。

政治のことなど詳しくは知らないけれど、そういうことに関しては甚だ敏感である。

こちらtvをあまり見ないし特にそんな選挙関連のものなど見ようという気もないが。

ニュースで流れるし、新聞紙上ではそんな記事に溢れているからいやでも見る。

そこで思うことは、提案にしろ批判にしろなんとも気を引く事ばかりを言う。

しかしながらそんなのは選挙の時だけ宣う事だろ。

そうでなけりゃここ3、40年も変わらないどころかますます悪くなっているじゃない。

と口では言わないが、思っている。もっと違う言い方、

丁寧なというか真摯に示してくれるやり方があっていいはずと思いながら、

そう言うこちらもなにも考えることができないまま、ぼんやりとやり過ごしているから

なんとも反応のしようがないのだ。けれどこのままでいいはずはないわけで・・・。

 この文章もそうなっているのかと思いつつ、なんだかね人に対して説明したがる。

説教をかましている。己の知っていることがいいことだと、思い込んでいる。

片一方では他人や違うことには無関心の態度の方も最近随分増えたような気がしている。

この無関心派と積極的派の両極にはっきり分かれているような気がしている。

じっさいはその曖昧なままな人が多いのではないかと、自分のことを思っても

思うけれど。そんな態度が許されないような空気もあるせいか。

両極に分かれてしまうのだろうかなどと考えてしまう。

あーもうだめだ睡魔がやってきた。ごめん

 

 

 

 

 

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稲刈り

2021-10-24 20:59:39 | 日記

 稲刈りがようよう昨日で終わった。

昨日は遼雲が稲刈りの応援をネットで知らせたところ、

金沢からも来られて、曇り空だったけれど賑やかにみなして刈り終えました。

お陰さまで今年も無事にすみました、ありがとうございます。

お米はやはり4月から半年かけての作物ですし、

その手間もやはりなみではありませず、ほっとしています。

 暗くなってから外で歯磨きをしていたら、

十六夜のお月さんが山の端から金色に輝いて出てきました。

古典を読んでいると、月との関係がとても濃いことに最初は驚きが少しありました。

が、それはこちらがもう太陽暦の中で暮らしているからで

彼らたちは月の満ち欠けや毎日の月の出で時間や日にちを知っていたわけで、

そのことを考えると、今のわれらとは比べることもできないほどの

月との関係、というのんかそれこそ月そのものとともにあったのだろう。

と、ここまで書いて急に思い出したように書きます。

 18世紀アイルランドの話です。アイルランドは放牧とジャガイモぐらいしか

できずとても貧しかったととか、しかしながらその分とても信仰心が厚く

優雅に暮らしていたとのこと。

それがある時イギリスからある経済家がやってきて

こんなことをしているから、貧しいままなのだ。

「時は金なり」と啓蒙したことでその後の国の経済が豊かになり、

自国の人口は300万人ぐらいのところアメリカに移住したアイリッシュたちは

勤勉で働き者のせいで(かのケネディ家に代表されるように)人口も3000万人

になったとか。このお話はたんにアイルランドの話ではなくいわゆる今の人類の

ありようを示唆してもいます。この島国も明治の中頃まで人口は3000万人代だったとか、

それがわずか100年足らずで3倍に増えているわけで、世界でも1900年の人口は16億。

100年後の現在76億約5倍に膨れ上がり、ついに地球という環境を壊して海や大地を汚して

やがて人そのものも住めなくなる。とのこと、もうひとついえば100年前と比べて

それははるかに便利に豊かになったことでしょう。

しかしながらそれに比例するごとく、貧困や病むものが増え、

今現在も人として生きていることの嬉しさ、

有り難さを堪能して生きているものたちがどれほどいるのか

ということを考えると、「時は金なり」と今も追いまくられるようにして

生きていることを考えると・・・。

いやはやなにやらまた書き急いでしまったようです。 

ここに30年40年前に来られていた人たちから最近連絡がくる。

あの時の若者がそれこそ50代60代になって思い出したようにして

懐かしいとばかりにお話をされている。ここはあの時のままですか、と。

人として生きるということはある意味なにも考えないで時代に流されるように

生きてきたのです。それが今の政治やこの社会のありように

はっきりと出ているようです。さてひと事ではなく、自分ごととしてゆっくりと

考え生きることを問われているのだと思います。

 

 

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ノコンギク

2021-10-12 20:15:10 | 日記

稲刈り中だ。けれど雨降りが続いて中断している。

この時期本来晴天続きなんだが、そんなことどもも通用しないようだ。

ススキの穂が揺れてセイダカアワダチソウの黄色とマッチングしている。

秋桜も外来種だけあってどこでも増えているが、これに対する苦情は聞いたことがない。

がセイダカアワダチソウは敗戦後に猛威して、

この島国を席巻しその当時自衛隊が出て駆除までやらせた強者だが、

今ではススキと仲良く共存しているようだ。

秋の花といえば一昔前菊作りが流行ったのだ。

こちらも親父の菊作りを手伝わされたから思い出が多い。

その菊ではなく雑草の菊である。野菊と言われているが、

野菊なるものはないらしく、ここらではノコンギクだ。

花というのはどんな花でもよーく見るととても素晴らしい。

このノコンギクの花もよく目につく。

しかしながらこれは畑で見ると困りものなんである。

繁殖力が強いということはそれなりに理由がある。

このノコンギクは根がとても強く白く太い根、これがすぐぽっきりと折れその小さな切れ端からでも

そこから芽を出す。それを放置しておくと瞬く間にノコンギク畑に変身してしまうくらいだ。

しかしながらこの花もじつにいい雰囲気である。

 

 閑話休題。小三治さんが亡くなった。もう10年ほど前になるか、金沢で落語をするとかで

落語好きメンバー何人かで聞きにいったことがある。

その時、顔を見ただけでや、くすぐりなどでは笑わないぞ、と決めて席に着いた。

しかしながら彼が高座に上がっただけですっかりこちらが緩んでしまい。

ちょっとのくすぐりで、でへへと笑ってしまったことを思い出す。

プロちゅうもんはたいしたもんだと、痛く関心したことを急に思い出した。

話の内容云々よりも人そのものの持つおかしみをそのまま語ることで

落語になっていくというなんともすごいものを見せてもらった印象だった。

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