人であること

2020-04-30 20:32:43 | 日記

 このコロナ騒ぎで色々思い巡らすことが多い。昨日ちょっと用事があり、輪島市内のスーパーへ。入ってからしまったと思ったのは、ほとんどの人がマスクをつけていた。こちらはつけていないわけで、それで慌てて買うものだけ買ってそそくさと出てきた。能登ではまだ感染者が出ていないのにも関わらず、この状態だから都会はさぞかしと想像するのです。なんていうのだろうかマスコミに煽られすぎといえば言い過ぎなのだろうか。コロナにかかるときは、掛かるんだから。いや何回もいうけれど決して侮っているつもりはないが、感染爆発への恐怖に駆り立てられてるだけで。なんかね最も重要なこと、人と人が会わなければ社会が成り立っていかないわけで、こんな中でもこの社会が動いているのは、「自粛」とは関係なく働かなければならない人がいて、この社会が動いているということ。今日ある友からこんなお手紙が届いた。そのなかにこんなくだりが、「ウィルスも震災も人の事です。自然活動は人に無関心ですから。だから人が浮き彫りになります。特に平穏は約束されてませんので、時々パニックになります。人は地球上ではエラーな生物ですが、僕達も自然現象なのでしょう。」この人族の愚鈍さと、こういうことが言える賢さ、この両義性が面白いところですね。「自粛」や「用心」しながらゆったり構えて人のありようを、自分というものの姿を見ましょうね。

 

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空き寺のこと

2020-04-28 11:50:36 | 日記

 去年の今頃、わたしはここを卒業して、どこか街なかのお寺に入りたい。ひいてはそんな空き寺を知らないでしょうか。とこのブログ上で書いた。けれどそんな情報はまったくなく1年が過ぎてしまった。

 そこで改めてその後の経過や今の状況などをお伝えして、ご協力をいただければと思ってこれを書いています。そもそもどうして街中のお寺に入りたいのかと言えば。それは今のこの閉塞的な状況(コロナ状況のことだけをいうのではありません。個人がバラバラにされたこと、特に社会的弱者と言われる人たち。子供や年配の方たちが虚ろになっている)にすこしでも風穴を開けたい、風通しをよくしたい。もとよりそんなことは一人の力でできることではないし、当方にそんな力があるとはまったく思ってもいませんが。そんな風に思っている人は少なからずいるわけでその多くの人たちも動けるきっかけを探しているに違いないと。それでなにか動きたい。そんな動きが周りの多くの人とともに何かできないか、とこれは以前から思っていたのです。もとよりこちらのできることは坐禅と勉強会なのですが、そこに集う方達の中から新しい動きが出て来ればいいな。と。

 で、その空き寺に入ってどれだけお寺そのものを開放できるかやってみたい。具体的にはこれまであまりお寺などにご縁がなかった若者、子供そして年配者が集える場ができたら素晴らしいと。その場にくると、人として生きていく上で最も大切なこと、それは自分自身を生きるということが、理屈などでなく身で感じられること。そして人との暖かい交流ができるような場になれば面白いな、と夢見るのです。

 そんなことでお寺を探していたのですが、ある方に相談をしていましたら空き寺を探すのは難しいが、古民家なら探せますよ。と言われ。それもそうだぼくなんぞがそんなお寺にこだわらなくとも。その古民家を皆してお寺に変えていくところからすれば面白いのではないかと、思った次第です。今その声をかけてくれた方が、奥多摩や檜原村の方に古民家がないか探してくれているのですが、こんな情報は多いほどいいのです。なにかいい古民家、見晴らしが良くて気持ちがいいようなところがありましたらぜひ教えて欲しいのです。

 もうひとつここのことについて。この地には住職になった遼雲を筆頭に子供達やその仲間たちが近くに集まってきており、これから自分たちの暮らしを造ろうぜ機運があり、ここは彼らに任せておいたほうが、面白い展開になりそうなのです。

 そんなわけでこちらの体力や気力がまだ衰えぬ間に始めないと、いかんよなぁとおもっております。どうぞ応援してください。というか、みなして一歩づつやりましょうよ。新しき寺づくりをしましょう。

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すごいなぁ

2020-04-20 20:11:48 | 日記

 飼い猫が子猫を産んだ。17日のことである。この猫(ゆき)去年の3月生まれだからまだこちらの気分とすれば子猫なのだが。今までにない人懐っこい猫、人の目をじっと見ていつもアイコンタクトをとるひとなのだ。まだ生まれた子猫は目も空いていないが、ゆきはほとんど離れることなくかいがいしく母親をしている。人ならば育児ノイローゼになりそう、というかこちらにすれば18の娘が一度に4匹も産んで黙々と世話をしている。親から子育てというのは大変なんだからと、教育されているわけでなくだ。まことにこうやってみると人族というのは言葉を生きる動物であるということ、集団社会の中でしか暮らせないということを改めて示してくれたようである。それにしてもこのコロナ騒ぎおよそ2ヶ月前には、ここまで進展するとはどなたも予想していなかっただろう。経済が落ち込むと、人の有り様も落ち込むわけである意味、気がコロナでやられている上にこの騒ぎだからパニック状態に落ちるのも致し方ないようにも思うが、ここは踏ん張りどころ。こんな時こそゆったりと構えて、暮らしたきものである。

産んだ場所はわたしの炬燵の中、フラッシュをたくとかわいそうな気がして、暗がりのまま撮ったから分かりづらいが。

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5月勉強会のこと

2020-04-14 20:54:20 | 日記

 毎年この5月に開いてきた勉強会がついに中止、または延期(9月の連休がどうかと言われていますが、まだ確定していません)となりました。やはりこのコロナ騒ぎには勝てませんでしたね。なんだか拍子抜けですが、致し方ないようです。このコロナ騒ぎはちょっと今までにない感じですよね。

 話が変わるようですが、(続きのつもりでいます)ある方がこんなことを言うていました。急に思い出したので、そのまま語ります。ギリシャではソクラテスなどの哲学者たちが出てきた時代は、インドでは釈迦、支那では老子や荘子などそしてイエスキリストなどが出てきた。これら賢人たちが出てきたのは、無限を感じたからに違いないと。それは文明社会が築かれ貨幣経済が出てくることで、今までの人生観が強者頼みやシャーマン頼み、または天災頼みなどではなく、一人の人がこの世を生きることのあり方をしっかりと自分自身に問うたからに違いないと。一人一人の人生はまことに短いが、人そのものはこれから永遠に続くものとしてある、無限なるものをすでにこのわれらが今ここで生きている。生かされていると言う自覚の中に置かれていることでもありました。それから2500年われらはこの賢人たちの教えに引っ張られるようにして生きてきたと。しかしながらここにきて、数多の戦争を今も経験し、あれほど信頼があった科学技術に対しても、人そのものを超えて一人歩きしそうな雰囲気である。そしてこの地球の有様は今の多様な生物がいてこその人族なのに、この人がはびこることで、他の生物たちが住めなくなっている状況、地球そのもの寿命は50億年とか言うらしいのですが。つまりもう無限としてあるということが、言えない時代になってきた(無限、有限なる言葉は当然のことながら人そのものの価値観、見ようである)。有限、人族そのものの寿命がある意味見えてきた、あるいは多くの人たちの中で、もうすでに人類という種そのものが消え去るときがくるということを、密かに感知してしまっている。ようにも思います。有限である、とはっきりと思い描くことでしか今のこの世界の混迷を抜け出せないように思います。そのことのきっかけにこのコロナがなれば幸いですね。

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桜ほころぶ

2020-04-09 20:54:03 | 日記

 いよいよ春の農作業も活発になってきました。薫炭をやり終えて、今日から稲の種蒔き作業に。まずは苗箱900枚の掃除からでした。明日はその苗箱に土を入れて、明後日種蒔きなのである。 そんななか、桜がちらほらほころんでいるではないか。このところお天気はいいものの、風は冷たいから一気に開花とはならないのだろう。桜、桃、木蓮の花たちも少し緩んできた感じ、この蕾が少し開いた感じがいいよね。ふくよかな気分しあわせの気分である。うんそうそうカタクリの花も咲いているね。ありがたいことです。

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