わじゅ カタル

山里・龍昌寺

ノコンギク

2021-10-12 20:15:10 | 日記

稲刈り中だ。けれど雨降りが続いて中断している。

この時期本来晴天続きなんだが、そんなことどもも通用しないようだ。

ススキの穂が揺れてセイダカアワダチソウの黄色とマッチングしている。

秋桜も外来種だけあってどこでも増えているが、これに対する苦情は聞いたことがない。

がセイダカアワダチソウは敗戦後に猛威して、

この島国を席巻しその当時自衛隊が出て駆除までやらせた強者だが、

今ではススキと仲良く共存しているようだ。

秋の花といえば一昔前菊作りが流行ったのだ。

こちらも親父の菊作りを手伝わされたから思い出が多い。

その菊ではなく雑草の菊である。野菊と言われているが、

野菊なるものはないらしく、ここらではノコンギクだ。

花というのはどんな花でもよーく見るととても素晴らしい。

このノコンギクの花もよく目につく。

しかしながらこれは畑で見ると困りものなんである。

繁殖力が強いということはそれなりに理由がある。

このノコンギクは根がとても強く白く太い根、これがすぐぽっきりと折れその小さな切れ端からでも

そこから芽を出す。それを放置しておくと瞬く間にノコンギク畑に変身してしまうくらいだ。

しかしながらこの花もじつにいい雰囲気である。

 

 閑話休題。小三治さんが亡くなった。もう10年ほど前になるか、金沢で落語をするとかで

落語好きメンバー何人かで聞きにいったことがある。

その時、顔を見ただけでや、くすぐりなどでは笑わないぞ、と決めて席に着いた。

しかしながら彼が高座に上がっただけですっかりこちらが緩んでしまい。

ちょっとのくすぐりで、でへへと笑ってしまったことを思い出す。

プロちゅうもんはたいしたもんだと、痛く関心したことを急に思い出した。

話の内容云々よりも人そのものの持つおかしみをそのまま語ることで

落語になっていくというなんともすごいものを見せてもらった印象だった。

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通信から

2021-09-27 20:21:52 | 日記

 よろみ村通信から

 

「かなし」

 おほかたの秋来るからにわが身こそかなしきものと思ひ知りぬれ   (古今和歌集、読み人知らず)
 人としてこの世に生きているということは、かなしみにすでにつつまれている。
 人である、人として生きるということが、けっきょくのところなんなのかわからないでいる。
このわからなさはかなしみに半分占められている。このかなしみは、悲しさではない。
 悲しみの淵にいる時、人は孤立している。孤立は孤独にいつも誘われるが、
この孤立は存在のあるに支えられていて、人としての開きの戸口にいる。
 どんなに大きな悲しみ小さな悲しみ、または異国の瓦礫の地にあろうとも、
われらはその悲しみのそばにいる。ともに涙し、あるいは茫然と佇む。
その悲しみの本体がなんなのか他者には解らない。とうの本人にもしかとはわからないものとしてある。
強いて言えば、人であること、言葉を生きるものの性なのだろうか。
 お話し会なるものをしていて、聞いておられる方のなかで、時に涙を流す人がおられる。
それは話の内容が、その方の闇に触れたからである。言葉には、そんな深さがある。
 ふだんは気にもとめない言葉が、あることを契機にわたしというものの深部に刺さるものとなる。
言葉は意味作用としてはたらいているが、その意味作用を離れてわたしというそんざいの深みに触れるからだ。
 それは自分だけがひそかに抱えているつもりで、そしてそれぞれの悲しみでしかありえないが、
その悲しみが同時に生きていることそのもののかけがえのない大切なそれを示すものとしてある。
われらが悲しみを自身の奥に抱えこませているのは、人生の開きに立ちあうためだ。
 日々を生きているということは、いつも何かに追われるようにして暮している。
そんな暮しのなかで、楽しみを辛さや苦しみをかかえながら、
自身の思いにだけふりまわされるようにして生きている。
 そこに他者が入る余地はない。ないがこのわれは、われの思いにふりまわされているぶん、
そこにいつも他者がいる。どんなに孤独で孤立していようと、その他者なしにわたしは生きられないからだ。
そこにはっきりと光をあてる時、わたしの生きる道は解らなくとも、
わたしを生きるということはすべてのものとともにここにあるということだけは、
一筋の行く先として示されている。
 古への人たちは、ことことばで語っていて、かなしを現代と同じ悲し、
哀しと意味したのはもちろんのことながら、愛しも美しもかなしと現していたということに、
なんとなくであれそうだろうとうけなわざるをえない。
愛しいの感情も美しいの感覚もそのせつなは、そう動くままなれどその感情や感覚が動いたことを省みると、
かなしとして動いていることがわかるからである。
 そして、この感情や感覚も自分の中では唯一といっていいほど、
ここにぶら下がるようにして、自分というものを囲ってはいるものの、
少しく離してみると、自分のものと思っているそれが親たちなどから育まれてきたもの、
この島国のモンスーンの風土の中で養われてきたものとしてあった。
 ことばや感情、感覚がいまも培われているということは、
いつでもそれらはなまなましく生きているもので、
これからも色々なこと様々なものたちに触れて変わりゆくものとしてある。  村田和樹
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月見

2021-09-20 20:28:24 | 日記

 昨日といい今夜も月がいい。

今夜は雲がなくてすっきりとしている分つまんない。

うんそうなんだ、昨晩のような雲の間から月が見えるという方がいいな。

昨日は夕暮れ時からよくてね、すこし赤みのさした絹糸のような雲の中から

すーっとでてくるんだもの、なんだか嬉しくなってね。

明晩が中秋の明月らしいんだけんど、明日は明日だからね、

今感じたことしか書けやしねぇ。

夕方近くなってから田んぼの、稲の熟れ具合を見に行ったのさ、

その帰り古墳墓のところへ寄り道。

ここに彼岸花を植えてからもう何年立つのか、

もうなんかね毎年よくなっていってね、最近カメラも

持たなくなったから言うばっかりだけど。

斜面に紅葉の木をたくさん植えたんだ。

その合間に彼岸花が斜面全体に広がっている。

すこしほの暗い緑のなかにこのきわどい赤が一面に点々とある。

こんな情景を独り占めしていると思っていたまではよかったんだ、

そのあとなんかね急に怖くなった?ような気がしてそそくさと降りてきたさ。

変なもんだ。

 

 唐突に話変わるが、お喋りついでに書いておこう。

半月ほど前か、東京でカウンセラーをやっておられる方が

ひょいと来られて、お話をした。(50過ぎか男性)

流石に聞くことを専門とやっておられるだけ、的確に聞いてくるものだから

つい調子に乗って喋ってしまったようだ。喋りすぎた後は、概して後味の悪いもの

だけどこの時は、相手もこちらも楽しかった。

1週間ほど前、大学院で経済学を教えているという方が来られた。(70過ぎ男性)

この方は元商社マンというだけあって話が面白そうで、聞き役に徹していたんだ。

しかしながらこういう人に限って二晩泊まるとかで・・・

ウイスキーもシングルモルトが好きでまでは良かったんだけど、

なんというか人のこと、興味がないのか、ほとんど独り語りでそれも

自慢というのか、その類のことで聞いている方が疲れる。

こちらはそういうことに耐えられないというか、辛抱強く

ないから早々に席を外してしまったが、連れ合いを相手に

延々とやっていた。できる人なのかどうなのかはよくわからない。

が聞くということを知らないから、話もつまらないのだ。

聞くのは訓練がいるし、力がいるということをあらためて思ったさ。

聞くことができて初めて人は語れるし、その語りに力もでてくるのだと思ったよ。

こちらの底の浅さも露呈するね。

とことん聞くことができればきっと変わるのだろうが・・・。

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野の花たち

2021-09-12 13:56:48 | 日記

 こんな山の中で暮らしていると、いやがおうでも野の花たちと出会う。

境内の草刈りも刈りだすと全部を刈るのにいく日もかかることになるし、

全部が終わった頃には最初の刈ったところはもう草が伸び始めていることにもなる。

今頃ならツリフネソウの黄色と赤の花がそれぞれ群をなしているところが違い。

そこのところはそれらたちが小さい頃から気を付けてやらねば、

来年花が咲かないことになる。

ツリフネソウの黄色花と赤花では葉っぱの趣きがずいぶん違う。

それらが頭に入っていなければ、野の花たちを切ってしまうことになる。

麒麟草も今時分の花で、これなんかも大切にしてきたことが

かえってそこらじゅうに麒麟草だらけになってしまうことになるから

要注意なのだ。

 そうやって草花たちを見ていると、なにかね、このひと好きっていうかんじ

それはなんていうか人に対しても基本的に変わらないなぁと思うのは、

自分でやっているようで、自分ではないなにかがそうさせているとしか

思えないのだ。例えばそのツリフネソウ、釣船草と書く。

ご存知ない方に説明をすると、救命ボートのような形の花が

糸で垂れるようにして風に揺られている姿は、いいんだ。

この黄色の葉っぱが好きだ。これもこうだから好きというより

赤花と比べるとやわらかな感じがするからかなぁぐらいだ。

現の証拠なんていうのも名前からしても薬草、整腸剤。

これも赤花と白い花がここにはある。これは赤の方が好きだなぁ。

花といっても1センチぐらいのもので、それに赤といっても

いろんな赤があるわけで、少しうす紅の印象、ピンクでなくだ。

ほととぎす花も今頃だ。これもこの葉がいいんだ。

こうやって書いて何がいいんだろうと、あらためて思うに

清涼感、変だよなぁ葉っぱに対しての印象なのに、しかし今はこうとしか言えない。

葉っぱといえば、エノコログサ、猫じゃらしと言って子供の頃

その穂のモジャモジャのところを毛虫に見立てて遊んだ草だ。

これは稲科らしく葉もすーと細長い。これがもう少し寒くなると

茶色?煉瓦色?とでもいうのか、斑入りする。その煉瓦色の

入り具合が絶妙なものがあって、田んぼの土手でしばらく時を過ごすことになる。

そうやってみるととてもゆたかなものたちに囲まれて暮らしているんだよなぁ。

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大根

2021-09-05 20:07:18 | 日記

 冬に大根のない暮らしは、ちょっと考えられない。

沢庵のこともあるし市販のものなんて買う気にもならないし。

うんそうなんだ。これだけお天気が不安定だと野菜たちも不安定で。

いや、野菜たちは順調に芽を出してくれて、さてこれからと言う時

虫たちが、これまでまったく被害のなかった虫たちがきて

大根の若葉を食い荒らしている。ダイコンハムシ3〜5ミリぐらいの

黒色の甲虫。これがいるところでは10匹ほども群がって葉を食い荒らしている。

んで、こりゃやばいとさすが農薬を買いに走らなかったけれど、

何かあるはずと、検索したんだ。すると無農薬農薬なるものがあり

要は唐辛子やニンニク、酢、焼酎などで作る農薬である。

早速に作った。スプレーで散布した霧状に出るそれら

噴霧するこちらにまともに被れば、鼻がムズムズして目も辛い。

んだが、敵もさるものこんなものではあきまへんでえー

とばかり、効いたのか効かないのか。なんとも嫌な感じ。

こんなことに追われていますだ。

 白菜の苗は定食しました。がこちらは例の如く

しっかりと寒冷紗で覆いをしているが、さてさてである。

ほんにこの地球体温一度の違いは、大変なことですぞ。

 

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