有意注意

2013-03-31 21:12:31 | 日記
 有意注意という言葉がある。意をもって意を注ぐ。仕事できる能力、それを発揮する熱意があっても方向が、銀行強盗や詐欺などに使うとしたら。何とするか、そういうものもときにおる。折角の才能に恵まれていても、あらぬことに力を発揮すれば、かえって仇となる。かえりて、凡庸のものでも人様のお役に立つや、自らの心を高める。魂を磨くことに尽力しようとするものは、おのずと自らももちろん周りのものたちに対しても、育てていく姿勢が養われる。
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無常 2

2013-03-30 21:40:32 | 日記
 無常といはれても私たちにはもうニヒリズム、虚無とほとんど区別がつきがたくなっているのではないか。と思う。虚無は生きていることに意味を見いだせない。何をしていてもなにやらつまらない。身体の底から楽しめてない。いつも寒い風がふいているようだ。であろうか。無常は一言で申せばはかなしの感情である。すべては移ろいいくものとしてある。年齢もあるころまではごくゆっくりと進むが、加齢がませば早くなり、無常を感じざるをえない。それは同時に産まれるということ、赤子が、あらゆるいのちあるものが生まれることも無常である。
 「よのすえには、まことある道心者、おほかたなし。しかあれども、しばらく心を無常にかけて、よのはかなく、ひとのいのちのあやふきことを、わすれざるべし。われは、よのはかなきことを、おもふと、しらざるべし。あひかまへて、法をおもくして、わが身、わがいのちをかろくすべし。法のためには、身もいのちも、をしまざるべし。」(正法眼蔵、道心)
 ここで使われている無常はわれの感情ではない。根源的事実としての無常である。法とは絶対的なありかたをいう。わたしたちは日常われの思いでだけ暮らしている。なれどわれというのは思い以前にすでにここにある。その事実いまここにこれのことをわたしと呼んでいるそこにいつも正当して生きよとせまる。
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塩水選

2013-03-29 21:03:33 | 日記
 毎年春一番の皆してする仕事が塩水選である。稲の種籾をに直か採取しているのだ。もうこういうことされる方もほとんどいなくなったとか。だってね、どこか他所の農薬まじりのものを高いお金を出して買うなんてへんじゃないか。もうかなり長いことやっているから、コシヒカリヨロミックスぐらいになっているだろう。籾にはノゲといって、稲の実だから枝が2、3㌢のものがついている。塩水選とは良い種籾をとるために塩水にいれて比重の重いものだけを残す作業なのである。それでそのノゲがついていると、塩水選をする時に邪魔なものだからノゲをとる機械に入れるのだけど、動かない。慌てて分解してなんとか復帰。だから塩水選は昼からになってしまい、皆と談論、四方山話をしながら。夕方に90キロようやく終わり、なんとか。つづいて芽だし機に6日入れて目覚ましをしてから、種蒔きという段取りである。
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無常ということ

2013-03-28 20:51:47 | 日記
 ニーチェが今のこの世界は、ニヒリズムであると言ったのは1800年代の終わり頃である。しかしながれ万葉のころから、「もののあはれ」「はかなし」『無常」とやってきたこの国に住むものたちにとっては、そのことの方があたりまえであった。それは自然とともに暮らしてきたからである。一神教の神がこの世を天地創造してできた感覚とはずいぶんことが違う。なれど、日本のものたちも明治以降西洋の文物を取り入れて、経済発展を成し遂げてきた。今この国は、その低迷する経済から這い上がろうと、けんめいであるらしい。高度資本主義というのは、消費者が消費をすることで、つまりものが動くことで経済が動く仕組みになっている。日本が全世界の中でもっとも生活身の回り品を保持しているらしい。米国が2位であるとか。ものが有り余っているのである。だからこそアジア諸国にものを売り出そうとしているらしい。ものは売れても利ざやが少ないから、困っている。そもそも、そういう回し方の時代は終わったのだ。これほどものが有り余っているのに、いっこうに幸せ感と言うか、充実感がうすい、それは無常観というよりもニヒリズムにすっかりやられてしまっている。
 アテがすっかりはずれてしまって、いったいどこにむかってなにをすればいいのか。と。そもそも充実感とか満足感、幸福感というものから卒業するときがきたのだとおもう。はかなし、無常ということばをキーにしてじっくり考えてみるときなのだとおもう。
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随聞記

2013-03-27 20:54:04 | 日記
 歎異抄は読まれた方もおられるとおもいます。けれどつぎに紹介したい正法眼蔵随聞記はあまりふれたことがないようにおもいます。そういうぼく自身がずいぶんぶりに開いて新鮮なかんじでこのところすこしづつ読んでおります。
 「またある僧云わく。それがし老母現在せり。我は即ち一子なり。ひとへにそれがしが扶持(ふち)に依りて渡世す。(わたしが養っています)恩愛もことにふかし。これに依っていささか世に随ふて、他の恩力を以て母の衣糧にあつ。我れもし遁世蘢居(とんせろうきょ)せば一日の活命も存じ難し。これに依て世間にありて一向仏道に入らざらんことも難事なり。もしなおも捨てて道に入るべき道理あらばその旨いかなるべきぞ。」この随聞記は以前にも少しお話したかと思いますが、師匠である道元和尚の言葉を、弟子の懐奘さんが聞いて書いたもの。だから特別な講義としてではなく、夜な夜なおはなしされたらしい。簡単に訳すと、道元和尚にある僧がお訪ねしています。老いた母の世話を周りの人にお金やものを頂いてしています。わたしが山に入って仏道に励めば母は生きられず、さりとてわたしはこのままでは修行できません。このようなものでも、仏道に入ることが出来ますでしょうか。と。
 
 『示していわく、この事難事なり。他人のはからひに非ず。ただ自らよくよく思惟して誠に仏道に志しあらば、いかなる支度方便をも案じて母儀の安堵活命をも支度して仏道に入らば、両方ともによき事なり。切に思うことは必ずとぐるなり。強き敵、深き色、重き宝なりとも、切に思う心深ければ、必ず方便も出来るようあるべし。これ天地善神の冥加もありて必ず成ずるなり」このこと難事であるといわれるところがいい。かんたんにこーやあーやと言われないものがある。けれどあなたほんきでやりたいのだったら、手立てはいくらもでてくるというもの。ともあれわたしはやる。まわりがどうあれ、わたしが全責任をもってやるときめたならばどうあっても成り立ちますよ。
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