言葉の深さ、奥行きは汲めども汲み尽くせないことを、歳ごとに感じているようだ。なにせこの自分というものが、生まれるはるか以前から言葉はあり、(約3万年から言葉が出てきたと)文字は紀元前3世紀ごろだから、5千年の時間が経過していることになる。それゆえとてもではないが、深さとしてある、らしい。不思議のひとつに、頭の中でもやもやとしていろんなことばが、飛び交っていてもじっさいにことばが出てくると、違うものになったりするし、会話の時などは相手から引き出されるようにことばが出てゆき、その言葉で自身が驚いたり、学んだりすることもしばしばある。それを文字に表す作業は、もう一つの作用がそこから加わるというか、培養するらしいのだ。ようは自分で書いたことなのに、その自分自身に大きな意味を与えることになる。
FB上で短歌の会(磨曜会)を開いている。アタマに浮かんだモチーフを歌に、5・7・5・7・7でまとめようとする時には、とうぜんのことながら、思案せざるをえない。そうやって出てきたもので悦にいったり、驚いたり、さまざまなことなれどその悩ましさが、ある種の醍醐味のようだ。この自分のものでさえ、そうやって一喜一憂している。そこに人さまの歌も読み込んでいろんなことをそこから味わうことをしているようだ。これは言葉のもつ最高の巡り合わせ、喜びなのではないかとさえ、思う時がある。この世のこと現世のことをうつしというらしい。歌ができるモチーフはほとんどがうつし(現世)のことである。それが歌ができて並べてしばらくするとうつ(空)になっていくらしい。この辺りのことは今詳しくは語れないが、とてもおもしろき世界だと思う。
先日21日に短歌の歌会2回目がありました。7人の歌詠みがそれぞれ5首投稿し、その互いの投稿したもの、今回は7人だから35首あり、その中で特選を1首秀逸を3首選んで歌会の席でそれぞれ感想を言い合う。今回は、ある意味特定の歌に集中することなく満遍なくそれぞれの歌が選ばれていた。見事にそれぞれがそれぞれの思いの中で出てきたもので、決してこのわたしから出てきた言葉ではないのにもかかわらず、そこからまた新しい地平、新しき世界を見せてくれるようで、何だかね、こんなことができる仲間といることのうれしさを感応した一瞬でもあったね。