草画帖ー草筆木筆で描く不思議のらかんたち
ここでも随分以前に泉井小太郎さんのことを紹介したことがある。
ぼくにはいろんな友人がいるが、文人とこちらの中で思っているのは彼一人だけである。
彼、今は故郷の兵庫、加西市に住んでいるが、以前は金沢に住んでいた。
その頃からの付き合いだからかれこれ30年ほどになるのではないか。
若い頃からロングヘアーで仙人ひげ、小柄でひょうひょうとしているようで
存外すばしこっく、草野球をここでやった時もフットワークといいなんかやりそうなのだ。
彼は詩人、俳人、拝画を描く。彼が語り出すと映画の話であれ野球の話であれ
またまた政治の話であれ、人をそこに引き込んで離さない。
何かこちらに言わせると天性の語り部なのだが、本人はそんなことに重きはなく
俳句を俳画を飄々と描いている。
最近、奥様も絵描きなのだがご両人ともがんになり、それでも二人で
相変わらずの暮らしを続けている。金沢にいた若い頃は古本屋の雇われ店主なるものを、
していた時期があるらしいが、こちらと出会った時期にはもうそんなことどももやめて、
さやかに清なるくらしをしていたんだ。だからこちらが金沢に用事ができて急に
訪ねてもいつもと変わらず応対してくれたのだ。ほとんどの人は忙しくやっているからね。
まして互いに3、40代だから。
昼にお邪魔して気がつくと夕暮れになって慌てて帰ることにいつもなったように思う。
さてこの草画帖のことである。
これのことは以前からここで取り上げて書きたいと、思っていた。
しかしながら書けないでいた。というかこちらに基本的な素養というのか、
その俳句やその文を評するほどのものが、こちらにないということだけが
はっきりとあって書けないでいる。今もそうである。
そのまま、その感想を言えば内容的に何もないのである。
なにもない。が、読んだ後、いろんなことがこちらの中で静かに醗酵している。
または魂が喜んでいる。このところ毎月1冊づつ刊行(ネットで売られている、こんなものがとてつもなく安い)
されていて現在42号である。1冊が14ページだから、読むということもない。眺めているに近い、
机のそばに置いてあり、思い出したようにして開いている。そんなものである。
何か役に立つとか、いい情報とか、知恵が詰まっているとかの類ではないのだ。
だから、なんにもない。このえも言われぬこれのことを共感を持って語れる人が
これまたそういないのだ。なんとも不思議な彼そのものがらかんなのである。