昨日までの世界

2019-12-04 22:08:30 | 日記

 哲学の会でした。ジャレド・ダイヤモンドの「昨日までの世界」を読んでいる。下巻宗教のところ。宗教の癒しと救済について書かれているところで、こんな下りがあった。そのまま引用すると、長いので適当にこちらがようやくした姿で書きます。宗教の癒しとは死期が近づいたり、大切な人を失ったときに提供されるそれのこと。例えば象は仲間が死んだことを認知し、その死を悲しむような行動をとる動物もいるとのこと。しかしながら、自分もいつかは死ぬと思えるのは人間だけであり、そこから宗教が発展してきたのではないか。狩猟採集社会から農耕社会へと移行した時、狩猟社会では集団が30人から50人ほど。農耕社会ではそれが何百人、何千人の単位での暮らしに切り替わるゆえ、人間関係の複雑さ、労働時間が長くなることで、問題が生じてきた。それから産業革命社会に変わるとその様相はますます顕著に。そうやってもっと豊かにもっと簡単、合理的にという流れの中で現代社会の中で、最も裕福なアメリカ社会においてその宗教がなくなるはずが、かえって増え意味を求める人たちが多いというのは、一体なぜなのだろうかと。これまで宗教は国家に取り込まれるようにして発展してきたが(もう一ついえば教団的宗教からも)、それらを離れて宗教のあり方がこれから本気で問われることになるのではないだろうか。(最後の部分はこちらの感想)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時雨

2019-12-03 21:03:06 | 日記

 時に雨と書いてしぐれと読む。うん、なんて言うのだろう、面白い表現だよね。モンスーン地帯特有の天気なのだろうか。他所のところのことは知らない、いや自分のところに入っている時雨の感じは、いま晴れているかと思っていると、しばらくもせぬうちに雨がそれが弱雨だったり強雨だったり、時にそこに霙が混じり、おーっこのまま冬かなどとやっていると、またたくの間に晴れ上がりなんともなのだ。今、夜になって空を仰ぐと南の方にオリオン座が見える。もうそんな季節なのだ。そんななかこのところなんだか毎日のようにいろんな人が来られる。幸いこちらも家におるものだからして、なにやらもぞもぞと話し込んでいる。ゆっくりと語れる人が来られるからおのずとそうなるのか、わからないが。年齢や性別を越えて、うん、人とゆっくりと語れる。互いの思いを聞きながら、交感共流できることがうれしい。人である、と言うことがなんであるかわからないまま、開きあいながら、まなざしを受けながらともにここにいることが、ありがたいのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする