草取り

2020-06-24 21:00:12 | 日記

 土曜日に東京でお話会があり、昨日帰ってきた。こちらから東京に行くだけで、なにやらものすごく気力、体力とも使うようで、昨日今日となんとも身体がだるい。ぐだぐだしているようだ。それで、行く前からの仕事の続き。蓮田の草取りである。今日などは、まったく容赦ない暑さでクラクラするが。田んぼに入るとおのずと手は勝手に動く。蜻蛉がヤゴからトンボになるのに失敗したのだろう、蟻に食べられていた。まことにこの自然の姿はいつもすごいのである。メダカが産卵したのだろう、その小さな、1センチほどの子メダカも群泳している。ちいさきものの姿のなんとも愛しいことか。そんなこんないろいろな姿に触れながら作業を。腰も痛いし、汗だくではあるけんど、なんとも田んぼから出ると、妙にいい感じになっているから不思議なのである。

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言葉のこと 5

2020-06-14 20:29:09 | 日記

 当たり前のことを言うようだけど、言葉を使うのはいつでもこのわれである。言葉の理解からじっさいに使うまでわたしの問題である。まず言葉を理解すると言うことからいえば、これも当たり前のことながら人によって違う。仮にお医者さん弁護士などと専門性の高い仕事をしているものの、その分野についての言葉に過敏に、そして複雑、重層的になるのは、そうである。それはある意味それぞれの仕事のことだからもっともなことである。高校の先生をやっていた方が、ある時ふと漏らしていた、どこか違う場所に行くと学校ばかりが目につくと。それはこちらで言えば田んぼをやっていると、少し変わった農法でやっている田んぼを一目見ただけである意味わかるようなものでもあるかと了解している。お坊さんの姿を一眼見ただけでたいがいこの方は真宗だなとか、この方は臨済だなとかわかるようなものでもあるかと。言葉の使い方も、言葉そのものは誰が使っても同じものなのにやはり明らかに違うのである。このこともある意味当たり前すぎて、よくわかってないように思う。で、このわれが言葉を使うときは、ほとんど何気に使っているから、このわれの言葉遣いがどんなものなのかをまったく知らないまま、使っている。ちょっと違うところからいうてみる。

 個の時代と言われて久しい。しかしこのことわれらこの島国に住む者にとってほとんどピンとこないまま、ただ産業社会の有り様の変化の中で個を生きてきた。もうすこし具体的に言えば、西洋社会では個とは神から授かった者で、神との契約の中で成立している。このありよう現代の西洋の人もそんな神との契約の中で暮らしているということ言いたいわけではなく、そういう文化土壌の中で育まれてきているから、自ずと個を大切、違う言葉で言えば自我を主張する文化である。それに比してこの島国では個という概念はない。いまのコロナ問題でも顕著になったのは、社会とは個が集まってできているものだから、国という形態は自分たちで作り上げていくものという背景がある。けれどこの島国では社会はなくて世間があるのだとは、阿部謹也(ヨーロッパ中世研究者)のいうところ。世間とは相互扶助の観念が強いことが特徴なれど、それが同時に同調圧力に変わるものとしてある。したがって国という概念もいまだにお上的だしわれらも文句を言う対象としてのそれで、自分たちで作っていくものとしての国にはまだ遠い。

 この個を生きているとは、じつはとても鋭く大きな問題であるにも関わらずわれらそのことにうろんなまま今までやり過ごしてきた。それは、言葉を生きているわれらはとうぜんのことながら、この自分ということ、仕事、暮らし、生きる、結婚、夫婦、社会などなど具体的な一つ一つに対して言葉でこのわれが意味や理由を示していくことでもある。それは何処かの誰かの問題でなくじかにこのわれのことであるということを、否応なく知らされてきた時代なのだと思う。

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言葉のこと 4

2020-06-12 20:39:45 | 日記

 われながら相変わらず読みずらい、下手くそなものを書いている、誰か編集をやってくれ!と言いたくなるが。そのままもう少し書いてみる。自分そのもの、生きていることそのものは、言葉で言い表せないものとしてあると書いた。それはいつでも現生、生成され続けているものとしてこの身があるからだ。言葉で追いつかない、クリップできない、ものとしてあるということ。と了解するしか手がない。しかもこのこともすぐアタマで納得する。そのことが論理、概念として「哲学」や「宗教」のはなしになる。その途端、自分ということから外れて違う脳内作業に活性しだす。哲学や宗教を学問として専攻している人たちはそれが仕事だからそれでいい。しかしながら、その専門にやってきた人たちから学ぶことは、自分ということが理りとしてあるということを学ぶためである。この学びは仕事などではなく自分という生の不思議さ、不可解さに触れることでここに深さやとんでもない広さがあるということであり、われを生きることそのものが謙虚にならざるを得ないことを習っているのだと思う。

 もう一方で、言葉で言い表せないとなんとなく了解すると、言葉を軽んずるというか、探さなくなる向きもある。このありようもだめなんだと思う。ここはどういうてもその言葉に引っかかってしまうが、あえてそれでも言えば、どこまでも無知である。知りようがないものとしてある。それゆえかえってけんめいに言葉を探し求めつづけなければと思う。明らかにできないものとしてあるがそれゆえにこそ明らかにするものとして、どこまでも掘り続けるということがどうやら人としてここにあるということなのだと思う。この深さや広さに果てはないし、いうてみればこのわれの掘り続け方じゃ先人たちと比べると浅すぎてはなしにもならない。がこのわれというもの、どんなに程度が知れていようが、何であろうがこのわれでするより他なきもの、各々がそれぞれのそこで習っていくものとしてあるということもはっきりしている。

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言葉のこと 3

2020-06-11 20:51:44 | 日記

 言葉にものことばとことことばがあると思っている。ものことばは普段のわれらの言葉遣いのそれである。指示語として言えばいいのでしょうか。ことことばとは言葉になる前のそれと言えば、昨日までの書いたこととつながる。がそればかりではないように思っている。今はまだはっきりと描ききれていない。そもそもこのものことば、ことことばという言葉を知ったのはうろ覚えながら、押田茂人神父だった。で、その内容もあまり覚えていない、もうこちらの勝手な領域に入ってしまっている。われの暮らしの中で、ものことばでは間に合わない時が生ずるのだ。それは多くの場合、迷い、惑い、悩みとともに呻吟を繰り返すことになる。何か言う所の哲学用語などではないし、宗教的概念などでもない。もうひとつ余計なことを挟めば、まどいなんだと思っている。言葉というのは意味や理由であると書いた。けれど意味や理由を超えたものを表現する術も、われらは長い年月のうちに積み重ねてきた。いつでも答えを欲しがっているのは、このわれというアタマの働きである。このアタマの働きをやめにするあり方が、やはりはっきりとあってその細いけれど確かな道を歩んできたのだ。それは今もいうように哲学用語や宗教的概念で言い表すことができる。が、すぐさまそれを、哲学や宗教の問題とかんちがいしてきているように思っている。そうではなく、どこにも所属することはできないこれのことをわれとも言えないまどいが開きになっていると思うのだ。生々しいものとしてあるということの豊かさだと今は素直に思える。

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言葉のこと 2

2020-06-10 20:55:54 | 日記

 一昨日言葉のことを書いたのは、われらは言葉を食べる、出している。まさしく言葉を生きている、ということを書いたつもり。今日もこれからも、何を書きたいのか、はっきりとわかっているわけではない。ないがずっともやもやがあり、なんとか出口を探しているようなのだ。

 日々の暮らしの中でもとうぜんのことながら、さまざまな言葉が飛び交う中で暮らしている。そんな言葉の中で、傷つき、癒され、安心または流れる中にある。そしてなるべく嫌な言葉を拾わないように、気持ちいいものを拾うとする分どうしても嫌な言葉に引っかかることが多いようだ。それは現在の自分のおいているあり方で言葉の引っ掛かり具合が違うからである。

 言葉というのは、われらが生きる前からここにあったものだから、言葉を使っている今もことさらに言葉を選んできたわけではない。が、何やらこの身のどこかではっきりと探しているのだ。で、あらためて言葉ってなんだと、問い直すと、じつに不思議、やっかいなものとしてあるということだけがすこしわかる。言葉は意味や理由としてもある。だからわれらはわれらのこのありようを意味や理由でつまり言葉で押さえている。しかしながら生きることそのものや自分そのものとは、言葉以前のこれだから、何かことがこの身に起きた時、その押さえはまったく機能しない。言葉を生きているものの基本的な構造というかありようなのだと思う。そしてもう一つはっきりと言えることは、われの人生観よりも言葉自身の持っているありようの方が深くて広い、だけどこの深さも広さもわれというありようを知ろうとする者にとってだけ機能するように思う。それは哲学をやっているとか、本を読んでいる、学んでいるからということではない。

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