テンよ

2022-01-30 09:46:09 | 日記

 2週間ほど前に鶏小屋が襲われて、2羽やられた。

その時は、誰が襲ったのかはっきりとわからず、ともあれ小屋の入れそうな穴を塞いだのだ。

立派な雄鶏と少し弱っていた雌鳥がやられたのだ。

その日はこの冬、最も冷え込み吹雪いている明け方前の時だった。

彼らも最新の注意を払って襲いにきたことがわかる。

その2羽は休耕田に遼雲が埋めてきた。

しかしその2日後、深夜に襲われ今度は9羽だった。

それで、その鶏たちがいる小屋の手前に飼料や鍬などの道具が置いてあり

そこに袋に8羽を入れて、1羽を無造作に置いたところの前にトラバサミを仕掛けた。

この時点ではもうこれはテンしかいないだろう、と思っていた。

その深夜から毎晩やってきて、もちろんトラバサミなどに引っかかりもせず、

およそその9羽を食べ尽くして、これはまた鶏の方に入られると思い、

小屋を補強し新しくワイヤー罠を買わないとだめだろうと、探していた。

けれど、一度ならず毎晩のようにきて、自然界では絶対ありつけないうまいものを

食べてしまった彼ら、もう少々の補強などものともせず、入り込み2羽やられた。

その2羽を手前の小屋に置いて、今度は違う場所にトラバサミを移動して仕掛けた。

その夜9時頃、飼い犬のうるさい声に応えて、遼雲が小屋に駆けつけたところ、

雄のテンがトラバサミにかかっており、それをやっつけ。もう1匹メスの方は逃げたとのこと。

それから小1時間ほどのち今度は鶏の悲鳴がして駆けつけたところ、メスのテンがおり

それを鉄の棒で殴りつけたが、鶏も驚いて外に逃げ出したから捕まえている間にテンも逃げたとのこと。

18羽いたものが6羽になった。テンと鶏そして人との攻防である。

 

 

 

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万葉集のことども

2022-01-26 20:53:42 | 日記

 先に古文の会のことは書いた。万葉集は以前にも読んだのだ。

けれど、古典文学全集の4巻もあることに恐れをなして、山本健吉さんの

万葉秀歌鑑賞を読んで通り過ぎたのだ。それが古今集や伊勢物語などを読んだことで、

少しは読める力がついたのかと思って、全集の万葉集を読み始めたのだ。

ところがである。その時も歴史的なことも含めてなんとなく名前ぐらいは知っていても、

ろくに知らないから、慌てるようにして一夜漬けのようにして学んだのだ。

それが、数年経って見ると、ぼくのことだからほとんどすっからかんで

はじめから歴史的なことから読み始めている。

そんなかで、岡野弘彦さんの「万葉秀歌探訪」を読んで今までのなんとなくから

もうひとつようやく踏み込んで読み始めている。

 歌を読むということそのもののありようのことである。

ぼくなぞは、好き嫌いの感情が強いせいだろう、

どうしても自分の感覚だけを頼りにしているのだろう。

鎮魂の歌(たましずめ)という言葉を知ってはいてもピンと来ていない。

というか、自分ごとじゃないのだ。ぼくというものは自分というものを生きていると

錯覚しているが、じっさいは言葉を生きている。とこれまでも言ってきた。

このことのありよう、そのつどのことなんですね。

なまの話であるということなのですが。万葉人にとって歌を歌うということは

まさに声を出して歌を歌うこととしてあるのだということ。

いまのわれらのように黙読するやり方ではない。お経などもまったくそうで

あれを黙読するだけのものだったら、お経にはならないのだ。

やはりはっきりと声を出してナムカラタンノーとやらねばならないのだ。

鎮魂と書くと、なんだかとたんに神秘的とでもいうのか、呪力などとイメージ

してしまうようだ。しかしながらこのもののことをわじゅと言い習わしている

というありようそのものが、すでに呪力は発動されているのだ。

人としてここに置かれているということそのものが、あらゆるものの陰がありて

ここにおり、そのありようが呪力なのでした。

 例えばあまりいい思いつきではないが、そのまま言うと

死ということ、多くは概念、イメージで捉えてしまぅており

じっさいは、わからないものおそれとしてある。言葉というものは

やっかいで、生きている限り死ぬといえばそのままである。

しかしながらそれで死ということをわかった、解決したなどと

思い込んでしまうと大切な何かも同時に失う。そこはもぞもぞと

わからぬまま、おそれながら問い続ければいいのだと思う。

なんでも言葉ではっきりとさせて整理したような気分になることだけは得意なわれらだものね。

 

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作歌

2022-01-14 20:59:44 | 日記

 ちょっと生意気にも作歌と書いてみた。

FB上の磨曜会で、短歌の会をやっている。

一応は短歌なのだが、俳句や詩、散文でも誰でも

共有できる場であればいいとやっている。

1週間に一度の投稿なのが、これが妙に早くて困る。

人がたくさんきて賑やかな夕餉だったよ。なんていうことは書けない。

思いはどうしても風景や心情の語りに片寄ることになるから、

毎度のパターンができつつあり、そういう自分のなかのできあいを

壊したいのだが、〆切はあっというまで、むたむたするばかりでちっとも正面

し得ていない。という言い訳が渦を巻いている。

けれど心情だけは向いており、その時に出てきた言葉を拾い出す作業をしている。

そのおかげだと思う。少し風景や物事を見る目が複眼的といえばかっこよすぎるが・・。

ある感覚や感情をピンに止めるようなことはこれまでもしてきたのだと思う。

が、なんともまだまだ作歌などといえたものじゃないことはわかっているつもりだ。

俳句は何か情景を切り取る作業、短歌は情を載せればなんとかなるのでは

などとやり始めたけれど、なんでもそうで奥が深いということは少し見えてきたようだ。

 古文の会は今月からいよいよ万葉集で、こんなふうによめたらどんなにかと思うが

まったくもって遠いので新聞の投稿欄をせいぜい読むことにしている。

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謹賀新年

2022-01-06 21:56:03 | 日記

 明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

年末から来客が4人いて、いつもとは違う年末年始を。

いやすることは違わないのですが、2日の書初めも新しき人たちと楽しかった。

でも来られていたそれぞれの方とは、なんともゆっくりとお話ができる方達で、その意味でも楽しかった。

その方たちが、3日に帰って今度は地元の夫婦たちが、当然のようにお酒で盛り上がり。

この方が生菓子を持ってきてくださり、それでまたもやお茶席に(元旦でもしたのだ)

この和菓子上等なもので、あくる日もそれで家族だけでお茶を飲んだのだ。

その夜は2日連続のお抹茶のせいだろう、夜途中でパカパカ目が覚めて、カフェインの強さを実感。

 昨日5日は七尾での哲学の会。柳宗悦の「南無阿弥陀仏」を。

以前にも書いたのかもう定かではないが。柳が晩年この島国独自で大成した念仏行、

このままでは消えてしまうと危惧して、リュウマチの痛みに堪えながら書いた渾身の一冊。

「実はいつの時代だとて、末世でない時代はない。どの時代にいようが、

まさにその時代が末法の世であり、極悪の世である。」

「だが末世とは私の周囲を見ての嫌悪なのであろうか。略ー考えると我が悪、我が愚はいうもおろか、

我が善、我が賢そのものが、すでに穢土なのではないか。どれとて2見の妄想にさまよっていないものはない。」

「法然上人はいう、仏を念ぜよ、さらば仏は必ず人を念じ給うと。

親鸞上人は説く、たとえ人が仏を念ぜずとも、仏が人を念じ給わぬ時はないと。

一遍上人はいう、仏も人もなく、念仏自らの念仏であると(念仏が念仏を申すなり)」

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