2013-06-30 21:12:59 | 日記
 夕方、蜩の初鳴き。今年も無事に鳴いてくれたという思い。と、そうかいよいよ夏なのだと合点したのでした。
 先日、日光の華厳の滝を見に行ったとき、今まで聴いたことのない蝉の声を聞いた。土産物屋のおじさんに尋ねた所蝦夷春ゼミと答えてくれた。もちろん蜩のような哀愁はないが、独特の声である。そう、こちらでも9月頃に、蝦夷ゼミがほんのしばらく鳴いてくれる。それはぎぃーぎぃーである。
 その蜩の鳴いた方を見たとき、おもわず周り中が夕映えにもあってか緑、緑が飛び込んできた。ほんに緑一色に染められているところにこの身はあったのだ。

見かけ

2013-06-29 21:37:19 | 日記
 今日ある方が来られた。ぼくは人見知りというわけでは決してないけれど、そうかといって積極的な方ではない。基本的に恥ずかしがり屋である。でも人が好きなんだとおもう。だから観察というか、ウオッチングは都会に出かけるとおのずとしているらしい。
 今日来られた方は会計士さんである。見るからに出来そうな方、せっかち、理屈を語りそうなタイプ。どちらかと言えば苦手なタイプである。でもはじめの一言喋ったかんじがこちらが抱いたイメージと違ったのだ。それでそのことばで、なんだか気安く喋ることができたのだ。
 なんだかね、こういうことってじつに多いよなぁとつくづくおもったのでした。

あざみ

2013-06-28 20:40:41 | 日記
 迷犬ハナと田んぼからぶらぶら歩く。道ばたにあざみの花が咲いていた。ぼくのなかにいつの頃からか住みついたようにして、あざみの花を見ると倍賞千恵子さんのあざみの歌のメロディが流れる。いまあらためてちゃんと聴いてみたら、うろ覚えのそれとはだいぶ違っていた。けれど、彼女の澄んだ声、哀愁がなんだかじーんときたな。

  「あざみの歌」

 山には山の 愁いあり
 海には海の 悲しみや
 ましてこころの 花園に
 咲きしあざみの 花ならば


 いとしき花よ 汝はあざみ
 こころの花よ 汝はあざみ
 さだめの径(みち)は 果てなくも
 香れよせめて わが胸に
  
 

道元

2013-06-27 21:35:06 | 日記
 今日、安泰寺のネルケ・無方さんから著書が届いた。この8月1日発刊の本である。
さっきぱらぱらと飛ばし読みしながら、目に留まった所を写す。
 
『道元を逆輸入する』ー「現成公案」を英語から理解する試みー  サンガ  ネルケ・無方
 
「仏法とは、自分の身に起きていることに、直接に気づくことを意味する。(老・病・死)というのは、東西南北の門の外での出来事ではない。自分が今すでに、その現実に直面しているのだ。「自分もいずれは死ぬかもしれない」というのではない。今、この一瞬において、すでに死につつある。生きながら、死につづけている。
 そもそも、何のために生まれたかはわからない。生きるのは自由だが、どう生きればよいかがわからない。親が敷いたレールには乗りたくはない。社会が用意した人生のストーリはうそ臭い・・・。そう思っているのは、決して現代人だけではない。ゴータマがすでにそうだった。それゆえ彼は(老・病・死)の中に(生)も含めて「四苦」とした。そして、そこからの出口を探し求めた。

言葉のこと

2013-06-26 21:12:05 | 日記
 私たちの頭の中というのは、どうなっているのかよく解らない。最近は脳科学が発達しており、飛躍的に解明されたといわれている。そういうことをちゃんと学び勉強したわけではないから、はなはだ当てずっぽうな言い方になると思うけれど、ちょっと書いてみる。頭の中というのはいつも何かしら、もやもやと考えている。目に見えたことから連想して、お腹がすいたとか、性欲のことだったりもする。ともあれいつも予期せぬことも含めて、いろいろな思い、イメージが交差しており、それらをそのつど言葉に出すこともしないでいる。
 困っているとき、悩んでいるときまたは、うれしいとき、楽しい時もそのひとつひとつを言葉にすることはなく、困っている、悩んでいるなどと単純化して言葉に出す。そのとき、その思いに対してことばがより正確に、思いに寄り添う如く出された言葉と、今まで使ってきた言葉をそのまま出すのとは、明らかに違う。
 困っていることや悩むことは辛いことだから、そうやって言うことで辛い自分を再確認していることになる。つまり今のこの自分に対して否定的になるから、周りの人に対しても否定的にとらえることが多くなる。つまりイヤなことばかりを見ることになる。
 けれど同じ困っていること悩むことなれど、もっとそこに近い言葉を探そうとしたり、寄り添う言葉を見つけることは、その当の自分自身、今のわたしそのものを見つめ、現在のこれを自身に認めることだから、肯定的に自分をとらえ前を向いて歩を進めることになる。とうぜんそのことは周りの人に対しても肯定的にとらえることができ、よき関係を築くことが出来る。
 
 言葉とはほんに不思議なもので、わたしの使っていることばで現象や世界までまったく違うものになってしまうことに今更ながら驚く。