本題に入る前に一言。今蛍のことが気になって、下の田んぼまで見に行った。まだすっかり暗くなる前ではあったけれど、うんこの分なら蛍のすばらしい光景が見れると思った。
サンガ通信
翠雨ーー青葉にふりそそぐ雨。緑雨。
この頃、雨にこころ静められることが多くなった。そして、その雨にただひたすらにぬれて、純粋な青や緑色に、精一杯の祈りをこめているかのような庭の青葉よ。ないているのかもしれない。憤怒のさけびのような激しい色にもうつる。人間を中心としない、つつまれて在るいのちの深さに、ただ静かに有り難さをおもう。いま、ここに、迷いつつも立つ、私をもつつみ流して。
対して思うのは、人間の姿である。もちろん私も含めて、はたして人間は「知恵」ある生き物(ホモサピエンス)なのだろうか。中略ー
いま、国会での論議の中でも、「安全」「平和」「自衛」の言葉が飛び交いながら、多くの人は何が問われているのかもよくわからずにいる。あれだけの戦争があって、戦わないことの誓いをたててから70年。戦争は、いつの間にかよくわからないうちにすすんでいくものだ。そして、どの国も「平和」「自衛」の名のもとに戦う。だれも責任を問うことなく、上っ面の「強い」言葉だけが走る。「強い」言葉には、深い問いがない。静かな「弱い」言葉の中にこそ、ブッダの説く智慧が生きてくる。青葉にふりそそぐ雨のように。
あわれむべし、かれら念慮の語句なることをしらず、語句の念慮を透脱することをしらず(正法眼蔵 山水経)
言葉にはもどかしさがある。どんなに言葉をつくしても、伝わることのない空しさにおそわれることもある。言葉で全てをつかめるはずもない。しかし、だからこその、言葉であり語句なのだと思える。はっきりとは表し切れない中にこそ言葉や語句が、私となって生きてくる。
この私というものを、つきぬけて透していくものが、確かにあると思えるとき、言葉というものが生きてこの私を照らすのだ。「念慮」とは、深く問うことであり、生きていることの身体と心の「震え」のようでもある。
お経にも深さがある。お経という縦糸は、迷いつつ生きる私達の旅の道標であろう。その深さを読みたいと思う。坐禅ー「坐る」ことも深さである。黙としての言葉であり、何もつかみ得ない「問いかけ」のように思う。
この不思量底を思量せよ。 (普勧坐禅儀)