サンガ通信 NO,39

2015-06-30 20:23:37 | 日記

 本題に入る前に一言。今蛍のことが気になって、下の田んぼまで見に行った。まだすっかり暗くなる前ではあったけれど、うんこの分なら蛍のすばらしい光景が見れると思った。

 

 サンガ通信

 翠雨ーー青葉にふりそそぐ雨。緑雨。

 この頃、雨にこころ静められることが多くなった。そして、その雨にただひたすらにぬれて、純粋な青や緑色に、精一杯の祈りをこめているかのような庭の青葉よ。ないているのかもしれない。憤怒のさけびのような激しい色にもうつる。人間を中心としない、つつまれて在るいのちの深さに、ただ静かに有り難さをおもう。いま、ここに、迷いつつも立つ、私をもつつみ流して。

 対して思うのは、人間の姿である。もちろん私も含めて、はたして人間は「知恵」ある生き物(ホモサピエンス)なのだろうか。中略ー

 いま、国会での論議の中でも、「安全」「平和」「自衛」の言葉が飛び交いながら、多くの人は何が問われているのかもよくわからずにいる。あれだけの戦争があって、戦わないことの誓いをたててから70年。戦争は、いつの間にかよくわからないうちにすすんでいくものだ。そして、どの国も「平和」「自衛」の名のもとに戦う。だれも責任を問うことなく、上っ面の「強い」言葉だけが走る。「強い」言葉には、深い問いがない。静かな「弱い」言葉の中にこそ、ブッダの説く智慧が生きてくる。青葉にふりそそぐ雨のように。

 

  あわれむべし、かれら念慮の語句なることをしらず、語句の念慮を透脱することをしらず(正法眼蔵 山水経)

 言葉にはもどかしさがある。どんなに言葉をつくしても、伝わることのない空しさにおそわれることもある。言葉で全てをつかめるはずもない。しかし、だからこその、言葉であり語句なのだと思える。はっきりとは表し切れない中にこそ言葉や語句が、私となって生きてくる。

 この私というものを、つきぬけて透していくものが、確かにあると思えるとき、言葉というものが生きてこの私を照らすのだ。「念慮」とは、深く問うことであり、生きていることの身体と心の「震え」のようでもある。

 お経にも深さがある。お経という縦糸は、迷いつつ生きる私達の旅の道標であろう。その深さを読みたいと思う。坐禅ー「坐る」ことも深さである。黙としての言葉であり、何もつかみ得ない「問いかけ」のように思う。

  この不思量底を思量せよ。 (普勧坐禅儀)

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ポン友

2015-06-29 20:13:40 | 日記

 もう学生時代などといってもそれから45年も過ぎたことに我ながら驚く。その学生時代の友である奴から年に4回の通信が届く。

そのM氏、(いまだに呼び捨てでみうらぁと呼んでいる)学生の時はバリバリの全共闘の闘志で、そんな奴がなんでノンポリのその時もボンヤリとやっていたものの部屋へよく来てくれたもんだと、いまさらながら思うが、都合の悪いことはみんな忘れたことにしているのでほとんど覚えていない。しかしながら、その彼は来るときまったように熱い言葉で現在ただいまの状況を縷々述べながら、そんなぼんやりと部屋で本にだけかじりついている時ではないのだと、激しい調子で説破していた。

 そんな奴もしばらくで大学は退学になり、時とともに運動は収縮した。それから通信教育で小学校の先生になり、東京での暮らしを。やがて障害児学級を受け持ち、PTAがうるさいからと早期退職。その後老人ホームに勤めながら自宅を開放して座禅会や勉強会などを開いている。

 その彼のことばがあたたかい。あれから45年の歳月がそうさせるのか。山形の田舎で育った良さが年を経たことでなんだか現れているようで、奴のことばを読んでいると、山形弁を耳元でなにやらぼそぼそと語っているようにかんじられて、心底ほっとするものがある。

 その文は明日にでもまた紹介します。

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外出

2015-06-28 17:49:47 | 日記

 昨日はこのところ毎年出向いている福井の真宗のお寺でのお説教に出かけてきた。こういう村のお年寄りたちの前でお話をするときのドキドキ感はまた特別なものがある。基本的に理屈で語っているせいであろうか、そういうふだんの理屈が通用しないということだけは、はっきりとわかっておりそこでどんなお話が出来るのかということを毎度試されているようで、今回もしどろもどろしながらどうやら役目をこなしたという態である。朝と昼からと2度のお話を終えて夕方に金沢の友人宅でくつろぐ。なにやら終った安堵感とともに久しぶりの友人たちとの飲み会に酔うているのでした。

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マリオのこと

2015-06-26 20:52:21 | 日記

 ブラジル三世であるマリオのことはここでも何回か書いたことがある。そのマリオ今朝帰ったが、富山の小矢部から4日ほど前に来て、田んぼの草刈りを手伝っていたのだ。けっして暇な男ではない。自らの仕事だけではなく、各イベントの世話から友人たちの応援と忙しく動いている。そんな彼が、息抜きと称して時折来る。彼云く、もうここに来てずいぶんになるのに、わじゅさんは一度も坐禅せよと言うたことがない。それが反対にずっと気になっていたと。じつはブラジルで坐る機会があり、ろくないい思いがないから坐禅せよと迫られるのじゃないかと、ひやひやしていたと。

 それで今回はなんだか坐ってみようと言う気になり、坐ったけれど、あの若いころの坐禅はなんだったのだろうと思ったというのだ。

それはじつに自分自身が落ち着いている、静まっておだやかにいる自分に驚いたというのだ。こういうのは年の加減なのだろうか。などと一人つぶやいていた。

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高橋源一郎さんのこと

2015-06-25 18:37:58 | 日記

 今日の朝日の紙面に論壇時評で高橋源一郎が憲法と民主主義という題で書いている。

この紙面で高橋のことをはじめて知って、それで読み継いでいる。去年はろくに彼のことを知らないからと、著書を数冊求めて読んだ。それは吉本隆明がらみでもあったが。それでわれながら合点すること多々あり興味を引かれている。それとレヴィナスという人のものを読み始めてから、内田樹さんのものにもずいぶん学ぶところあり、その内田と高橋がうまがあっているらしいのは一読者としても心強いものがある。

 

 その高橋が論考の冒頭に18歳の時、拘置所に入っていた頃、自身の社会や政治のことについてしゃべることばの薄っぺらさが心底いやになった。と書いている。こちとら60過ぎのこの年になってもいまだその薄っぺらさは消えず、そうかといってそのことを正そうともせず相変わらずぼんやりとやっているものには、はなはだ痛いことばではある。

 が、社会や政治向きのことを(社会や政治のことだけではないが)憤りや感情だけで片付けてしまっている向きのあるものにとっては、この高橋の学びの態度、真摯さは大いに学びたきものとおもった。このなかでもっともあたりまえのことでありながら、ついそのことの本質を見えなくさせるなにかが、いつもあるようにおもう。それは「国家は人間のために存在し、人間が国家のためにあるのではない」という一文である。

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