聞くということ

2015-11-30 21:55:30 | 日記

 昨日の昼は七尾から客人が来られて、昼飯をご一緒した。お一人は、七尾の読書会のメンバーでこの方がいるといないとで、会の様子もずいぶん違う。彼女は解らないことは解らないとその場で明朗に言えるのだ。そういってくださるだけで、こちらも話の筋を違う角度から見直すことができるし、お話が一方通行になりがちな内容だけに、そうならないための歯止めにもなっている。そんな彼女が連れて来られる方だから、さぞかしおもしろい方なんだろうと思っていた。聞けば、彼女の篠笛の先生だと言う。で、その彼は6年前に親の介護で地元に帰ってきたとのこと。金沢では営業をやっていたとか。お家は茅葺きの代々の専業農家らしく共同で今では田んぼを50町やっているとのこと。しかしながら篠笛の先生をする方だから、木彫から地域作りにかかわっているとかで、それこそお話が尽きない。よく語る。身体は大きいけれど、威圧的でなく、終始にこやかに語られる。お話も流れるようで、こちらは間の手を打つだけでいい。ぼくは基本的には受け身タイプらしく、よく語ってくれる人は有り難い。

 先日もこういうお話上手な方が来られた。こういう方と会っていると、その時はそれでいいのだ。しかしながら、後から振り返ると、なんというかその方のことがあまり残っていないのだ。人と出会う。語るということはどんな人とであれ、一方通行はありえないはずである。言葉を交わす。行き交う、ということはたんなる情報交換ではない。人生そのものを互いに刻むことによって、なにかの共感なり違いをさまざまに交換することなのだと思う。うんーと、どうも歯切れが悪いね。ようするに、お話が上手だと思っている方は聞くという力がない方が多いようにおもう。自分の話することばかりに力点があって、聞くということがお留守になっている。ほんとうにお話できるかたはまず聞く力がおのずと高い。まぁこれも人と人のことであればとうぜん相性のこともあるから、一様には言いがたきこともある。けれど、ともあれ聞く力をまず肥やすことがよく語れることの大事なポイントだなぁ。と思った次第。


大根干し

2015-11-29 21:04:40 | 日記

 このところ毎日ぐずついたお天気が続いている。雨が降らないのを待っていてもらちがあかない。で、合羽を着ての出動になる。合羽というものは、こういう暮らしをするものにとっては戦闘服だと思っている。着る前はなんとなく気後れ?がするというか。うっとうしい感じなのだ。けれど、これを着込んでしまうと雨が降ろうが風が吹こうがへいちゃらになってしまうんだから。まだ山に入って木も伐っているがその時も合羽である。少々汚れようが気にもならず動けるからだ。

 沢庵用の大根を干した。畑からぬいて洗って干すという一連の作業も合羽を着込んでいると泥がつこうがかまわず動けるのだ。大根はそれこそ無肥料でやっている。ジャガイモの跡地ということもあるが、すの入るのがいやでそうしている。沢庵用の大根は宮重という品種で古くからあるもの。青首でひょろ長い。これが無肥料だとこの頃はあまりに小さいから、ボカシ肥料を入れようかなと思ってもいたんだ。ところがこの10月11月と暖かい気候だったせいだろう、やけに立派なのだ。

 写真は浅漬けにしようと採ってきた総太という種類。こんな立派な大根ひさびさである。


植木鉢

2015-11-28 20:45:04 | 日記

 毎年この時期になると、梅や木瓜を地面から植木鉢に移し替える。冬のあいだ、茶の間の部屋にそれらの花が咲くようにしているのだ。ぜんぶで5鉢もあった。なんだかだんだんと増えていくのだ。親父がそれこそ色んな盆栽をやっていてずいぶん手伝わされた。それで、あんな面倒なことはもうしないだろう、となんとなく思っていた。ところがある時、近くのホームセンターで時期外れで定価の半額になっている木瓜の鉢と目が合ってしまったのだ。うん、その赤色に魅かれてね。赤でもいろいろあるからなぁ。それが今では今日の日のように雨降りにもかかわらず、合羽を着てしているのだからたいしたものだ。花のきれいなものが咲くことを想像すると、苦に思わないのだろう。無精は無精だから春からいままでは植木鉢の世話をきちんとできないから、地面に植えておくのだ。その方が根ばりもよくなって花もよく咲いてくれる。木の剪定も高校のときから庭木の剪定や冬の雪つりなどもやらされたから、おのずとできるのだ。そうそうリサイクルショップの前にいつも植木鉢がたくさん置いてあるところがあって、そこでいいものがあると何の予定もないのに、つい買ってしまう。こんなことも親父の影響がでているんだなぁと、にやついてしまうんだ。


2015-11-27 20:35:50 | 日記

 昨日夜から北風がびゅうびゅう吹いて、風呂薪にかぶせてあったトタンもめくれていたほどだ。午前中のひととき、真っ白に雪である。昼からあわてるようにして、車のタイヤをスノータイヤに変える。

 

 折々のことばから(鷲田清一)15、11、27。「彼らが親の私に対して礼儀正しくあってほしいと思うように、親の私も彼らに対して礼儀を失いませんように」

 こんな言葉を読んで急に親のことが蘇った。お袋の、ぼくの記憶のなかではこちらに対して、真顔で怒ったり、説教がましいこと言われたことがないのだ。なんだかいつでもごろんと横になっているか、にこにこしていた顔の印象がつよいのだ。親父にはよくなぐられたし、どなられた。けれどそれははっきりとこちらが悪いことをしてのそれだったから理不尽なことがあまりおもいあたらない。それよりいつでもなんだか対等につきあってくれていたよなぁ、とおもいだすことしきりなのである。これらもぼくのなかの彼らで兄弟でもそれぞれ違うからなぁ。


山茶花

2015-11-26 20:25:52 | 日記

 雑木山の木々たちの葉っぱがほとんど散って冬の様相である。紅葉はなんとも山ぜんたいがにぎにぎしいから、その状態から一気に寂しい風景に様変わりする。雪が積もってしまえば、それはまた別世界なのだけれど、この茶色世界はうら寂しい。そんななか山茶花の赤がいい。赤色にもいろいろあるが、この山茶花の赤は哀愁がある。いわば大人の赤なんだ。