彼岸花

2013-09-30 21:04:53 | 日記

 2年続けて、彼岸花の球根を沢山古墳墓の手前のところに植えたんだ。知っている方は多いだろうけれど、この花は花だけが唐突に咲く。それからしばらくして、花がすっかり枯れてから葉っぱが出てくる。その葉っぱは、球根の植えた数だけ出てくる。それは200本ほどだろうか。

 けれど、かんじんの花は去年は2本、今年は今のところ1本。これはどういうことなのだろうか。葉っぱは出るのに花が咲かないなんて。やはり、基本的なモンダイがあるのだろうと思う。だれかご存知の方、教えて下さい。よろしくお願いします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石田徹也のこと

2013-09-29 21:15:58 | 日記

 今朝TVで見た。石田徹也の絵がどきっとした。不安、虚しさ、この現代社会のなかで暮らす息苦しさを、描いている。1973年から2005年、32歳で亡くなっているらしい。ぼくは今日初めて知った。

 ぼくは、坊さんでいることの出発点は虚しさからだと思っているところがあるから、この彼の絵を見てはなはだ共感するものがあった。そうか、彼もこうやって闘って来たのかと。

 就職の面接会場とおぼしき場所、面接官は顕微鏡となってその学生を調べている。学生は無論、おののきおびえている図も強烈だ。

 炬燵男、炬燵がひっくり返っている。辺りにその炬燵の上にあっただろう、食事のあれこれが散乱している。炬燵は逆さまにになっており、その熱いヒーターは頭で男は怒って歯をむき出している。炬燵の4本足の先が手や足になっている。

 団地にはさまれたようにしてうずくまっているサラリーマン、足に包帯を巻いて怪我しているが。そもそも、なんで自分はこの社会のなかで闘っているのか、解らない。傷ついているがなんで怪我したかも定かではない。自分というのはなんで、どこに向おうとしているのかわからないでいる。

 ともあれ色んな絵を沢山描いているらしい。社会は情報や活動に満ちているように見えるけれど、それは消費と浪費に追われるだけの、いうなれば文句やため口を言いつつ、毎日ベルトコンベヤーに乗っかっているそこの荷物と変わらないじゃないか。かえって部屋にこもって世の中に背を向けてひとりいるほうがまだ自然に近いのではないのか。などと激しく葛藤しながら問うている。おれを生きるって結局なんなのだと。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画 どら平太

2013-09-28 23:07:44 | 日記

 昨晩久し振りに、映画を観た。といっても、TVでやっていたものだけど。

 前にも書いたかと思うけれど、中学、高校の時は今から思えば映画が人生の師であったような感覚で見ていたとおもう。だからここへ来てからもいい映画があると、皆して映画ツアーと称して見に行った。それぞれの連れ合いも行くからとうぜん子供たちも全員行くことになり、連れ合いとは別々に見ることで、見ていないほうの相棒は子どもの面倒を見ることになる。そこまでして映画を観たかったのだ。その時ももうビデオはもうあったんだけれど、スクリーンで観ないと映画じゃないというていたのかな。

 今はわざわざ金沢まで、2時間かけて観たいと思わなくなったようなんだ。それでも昨日のどら平太を観ると、やっぱり映画はいいよな。としみじみ思わせてくれる。この映画、原作は山本周五郎、脚本は黒澤明、小林正樹、市川崑などである。ともかく痛快時代劇のおもしろさを存分に堪能させてくれたね。大いに笑ったしね。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ままごとなんだ

2013-09-27 22:14:28 | 日記

 キノコが出るシーズンである。山に入り込むと途端に別世界になる。谷一つ超えて人工物が見えなくなってしまうと、ボンクラの眼には山の風景がどこも同じになってしまって、方角も自分のいる場も解らなくなるときがある。

 そんな時、迷ったんだなと。

キノコを探していると、目がキノコの目と言うか、キノコの目にならないとキノコは採れないんだ。サザエやアワビもそうで、サザエの目にならないとサザエやアワビを見つけることはできないんだ。漫然と眺めているだけではだめなんだな。

 キノコの目になっていると、キノコは見つけることはできるけれど、山そのもののありようはみていないんだな、これが。で、迷ってしまって辺りをうろつくことにも疲れて、坐り込む。仕方なく坐り込む。坐り込むことで、キノコ目からも娑婆目(常識的なものの見方)からも解かれて、山そのものを見る。

 そうやってようよう落ち着いてみると、その世間とは別世界の山の中が、なんとも豊かでいろいろで、驚きの不思議な営みが繰り広げられていることか。そんなことにこころ奪われていると、ぼくの住んでいる世界がまるで、ままごと、紙芝居のなかのなんとも薄っぺらいなかでやっていることかと急におもう。

 ところが里に降りて来て一息もつく頃になると、ままごとであることなんかとうに忘れて、なかなかしぶといのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白菜のこと

2013-09-26 20:49:08 | 日記

 白菜の苗のこと。書いたようにも思うし、どうだったか。もう3日前のことになると、ボヤけている。これは加齢のせいだけではなく、どうもこれは(アタマは)こんなボヤけたものなのだ。どうも若い頃からこうらしく、はなはだボヤけたところとそうでもないところとが混じり合っているようである。

 そう白菜のことである。今月の初め頃、かなりの雨そして幾日も続いた。それでポットのなかが水浸しの状態が続いたせいだろう。百余りの苗がおかしくなった。根腐れである。植えて間もなくも雨降り、それで直ぐダメになったものが、20本ほど。様子を見ていたけれどやっぱりダメで、今日になって植え替えたものが30本ほど。結局半分はやられたのだ。こんなことも初めてである。

 白菜は冬の王様と言うか、鍋にしろなんにしろ白菜がないと冬は越せないくらい。今から結球するかと思いきや、それでもと思いホームセンターから苗を買って来たのだ。こんなことも初めてである。なにせ、買った白菜や村のばあちゃんなどからもらったものは、味がしないのである。米ぬかボカシで育てたものは生で食べると直ぐ解る。甘いのであるよ。そんなこんなで今頃になって白菜の定植をした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする