17日から東京にお話会で出向いて来ました。そういうところでないと出会いがない人たちもいて、そのことがうれしい、有り難いのだ。友の家に泊まることに。外食はしないし、気を使わせるものみたいでどこに行ってもよくしてくれてなんとも申し訳ないというか、ありがたいのだ。しかし先度出向いた時もそうだったけんど、帰ると鼻がぐずぐずしている。どうもね、風呂温度が違うのだ。こちら五右衛門風呂だし毎度ちんちんに熱い湯に入るのが日課というか、趣味になっている。それでいわゆるの家庭風呂に入ると、みんななんでこんなぬるいところに入っているのかと思うほどぬるい。それで身体の体温調節機能がダメらしく、汗もそうだけど鼻で調節しているらしく、ぐずぐずと鼻水が止まらないことになる。ともあれそこでお会いした皆さまあらためてお礼申し上げます。ありがとうございました。お陰さまで17日18日と両方とも盛況でした。
そんな鼻ぐずぐずの中、昨晩は古文の会でした。
今回の段は恋の長いところがようやく終わって、哀傷歌、と雑歌のところです。
834 夢とこそいふべかりけれ 世の中にうつつあるものと思ひけるかな
紀貫之
現代語訳 この世はまさに夢以外の何物でもなかった。だのに、今度あの人に
死なれるまでは、私はこの世に不滅の「現実」が存在するのだとばかり思っていた。
861 つひにゆく道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを
在原業平
現代語訳 死というものが人生最後の行路だとは、前から聞かされていたのではあるが、それがきのうや今日旅立つべき道であるとは思わなかった。
現代語訳がもう一つで作者の切実さがもうひとつ汲取れぬくいかもと思いつつ。この無常観はこの時代からはっきり出て来たようで、いまの我らとほとんど変わらぬ。1000年前と明らかに違うのは、死がとても目の前にというか、病院で知らぬ間になくなるということはないわけで、誰かに看取られながらいく有様の中でも、自分の番というのは認め難い。その認めがたさを超えて、それはそれとして押し寄せてくるありように否応なくはいである。