ここで一人暮らしをするようになって、ラジオやスマホで音楽や講義などを聞いている。高橋源一郎が飛ぶ教室という番組をやっていて、それも聞いている。
普段は1時間ものなれど、谷川俊太郎さんちにお邪魔するという2時間番組で、面白かった。谷川さんの詩はたくさん溢れているから、あまり読みもしなくなったが、河合隼雄などとの対話などはよく読んだし、やはり十八歳の時に書いたという20億光年の孤独は、やはり衝撃的だったのだ。
その高橋源一郎とのやりとりも面白かったのだが、91歳になる谷川俊太郎がプレイデイみかことの往復書簡集を出していて、その中で彼は書簡ではなく詩で応答しているのだが、彼曰く、ぼくは現実のことは疎くあまりよく知らない。ぼくは言葉を現場として生きてきた。と、サラッと言われる。
言葉を現場として生きているのはわれらも同じである。それは詩人の特権ではない。しかしながらわれらは、ほとんど言葉を現場などと思ってなぞいない。自分はまごうことなき自分を生きているなどと、無闇に思い込んでしまっている。言葉を現場だと言い放つところから見える風景が、おのずと開けているようだ。
「その世」 谷川俊太郎
この世とあの世のあわいに その世はある
騒々しいこの世と違って その世は静かだ
あの世の沈黙にくみしてない
風音や波音 雨音 しとやかなむつ言
そして音楽がこの星の大気に恵まれて
耳を受胎して その世をすべている
とどまることができない その世のつかのまに
人はこの世を忘れ
知らないあの世を なつかしむ
この世の記憶は こだまのように
かすかに残る そこで 見ない さわらない
ただ聞くだけ
「自分だけ」
2時過ぎ他人がきた
高校の頃から知っている友達だが
自分とは違う人間だから 他人というしかない
お前は昔から詩を書いているが
それはなぜなんだと 珍しく他人が問う
他に楽しみがないと
応えると うそだろうと言う
妻がビールを出してきた
妻も他人だが
妻は私を他人だと思ってない
妻がビールを呑んでいる他人に言う
この人は私を名字で呼ぶんです
呼びつけですか いいえ
さんづけで と応えた
お前は奥さんを詩に書いているか と言うから
もちろんと 応えた
妻が へぇーととぼけている
急に気恥ずかしくなった
この世は他人だらけである
他人でないのは
自分だけだと思うと さびしい
こちらのことを思うと、これ91歳の人が書いたとは到底思えない。
その素直さあたりまえさのそのままに、書ける力量が全身詩人だと言ってしまえば
こちらはある意味、ラクだがどうもそんなことじゃないような気がする。
誰かに対してではなく、自分自身というものに向かって親切で丁寧なんだ。だから他人というものにもそうならざるを得ないよな。とおもうた。
している内に、わじゅさんのコメントも写していました。コメントが良かったのです。
なんだかね、こちらのこととして思うと、いやぁこりゃまだまだ遠いところでウロウロしているなぁ、としきりにおもっている。
またゆっくりと話したいね