あれからほぼ1ヶ月が経とうとしている。独りの暮らしにも、ようやく慣れてきて寂しさをある意味、素直に受け入れつつあるようだ。そんな元旦の夕近くグラグランの地震で、暮らしが一変。
これは相当な地震だと直感。台所の食器棚(ここの本堂に置いてあった小ぶりの本棚)が倒れて見事に食器が割れて散乱。そういう凄まじい音などまったくと言っていいほど、耳に残ってない。
耳より身体の振動(地震の上下運動が激しかった)の方がはるかに大きいようだ。膝の上で寝そべりながら、共に本を読んでいた猫、何事が起きたのかと、一目散に彼の安全のところに入り込んでいった。
ストーブの上にやかんとうどんを湯掻くために、鍋に湯を沸かせていた。ストーブの火を消さんと思い立ち上がり、消そうとするもぐらついて上手く立ち上がることができない。四つん這いになりながら、火だけは止めたもののやかんや鍋がストーブの上で飛び跳ねて、今にもひっくり返そうだった。それを見つめるだけで、身体が動かない。あとで思い返すたびにそのことが、やたらフラッシュバックするようでスローモーションの映像が頭の中を今も、駆け巡る。
ともあれこんな大地震の後は、余震もすごいというがまことに余震が夜昼関係なく揺れる。あとでみんなの話を聞いてみると、あの余震が強かったから、動くことを諦めて、避難所に逃げ込んだとのことであった。こちらはある意味習い性のことなんだろう。ごじゃごじゃになっているのをそのままにすることなどできず。余震がくるたびにその食器棚などを抑えながら、割れたものの始末を。そうやって台所、トイレ、茶の間、寝る部屋と普段使いのところだけを、ともあれ片付けてご飯を食べたらもう夜の10時ごろだった。
翌朝やはりいつも通り6時前には起きだし瓦礫をよかして坐禅、朝課と梵鐘とあまり何も考えもせずいつも通り動いている。身体がそうやって動いていることになんだろう毎日のやっていることの力とでもいうのんか、すごいもんだと感心している。
庫裡の棟瓦が地震で2メートルほどずれてしまった。ブルーシートを金沢まで買いに行くも、すでに棚には何もない状態。それで友たちに声をかけたら、ブルーシートが集まりその翌日は晴れるけれど、2日後にはまた雪だという。それで近くに住む青年(ソウル)に頼むと一つ返事で、彼がいなければとてもじゃないができなかった。ずれてしまった棟の瓦を棟のところに置いてから、ブルーシートをかけるのだが棟瓦の赤土が流れ出しており、必然的にその上はちょっとでも体重をかけて足をかけようものなら、ツルン、ザーと滑る。そこで命綱のロープを頼りながらの作業。2人いてどうにかだった。後半ブルーシートをかけ終わるころから雨がぱつぱつ降り始め、最悪の感じに。というのもここらへんの瓦は、雪国特有の凍よけの釉薬をかけてあり、この瓦が遠くから見るとよく反射して黒光の瓦だ。幸い雨降りポツポツ程度で無事かけ終わったのだ。
それからよろみの龍昌寺に出かけたり、門前の黒島で鍼灸師をしている家を見に行ったりしているうちに、ここが避難所になり、その鍼灸師の雅哉夫妻と娘一家との暮らしが始まった。2・7歳の楽くんと0・3歳の爽君との同居だ。この幼児たちのスーパパワーぶりにともあれ毎日翻弄されっぱなしの日々が、たのしくもにぎやか、振り回されて家政婦をしているね。