玉葱の定植を今日ようやく終えた。この玉葱というやつは、ほとんど1年中といっていいほど畑にいるんだ。8月の末に種まきをして、この時期に定植して収穫が7月だから。ね、ほぼ畑なんだ。定植するには畑を先ず夏野菜などが植えてあったからそれを片付けねばならない。それから、草刈り。刈り倒した草を寄せてきれいにする。これが結構手間なのだ。そこで耕耘機の出番である。この家庭菜園用の耕耘機、じつは甲府で義父が畑で使っていたものだ。こんなもの使うかなぁ、などと思っていたが、いまではこれがないとダメぐらいの働き者である。畝づくり、幅約90㌢、長さきちんと計ってないが。あてずっぼうのまま言えば、7、8mぐらいか。それが6列。二条植えにするから、畝の真ん中にボカシを入れる。ちなみに玉葱は霜で苗が浮き上がったり、ここでは雪が降ってしまって雪の下にいれば、安心なのだがその前に雪が降ったりやんだり、冷たい雨が降って、畝のところに水たまりができたり、排水が悪いと苗が溶けてしまう。それで排水をよくして畝も幾分高めに。そんなこんなを天気を見ながらやっていたら、5、6日もかかってしまったのだ。うん、なんでもじぶんで育てて食べるというのは、やはり手間のかかることなのであるよ。
久しぶりにブルックナーを聞いた。連れ合いがいない時は、大音量で聞けるのだ。それで、今夜はなにをかけようかと息子。それでブルックナーのミサ曲第3番、チェリビダッケの指揮である。部屋の障子が震えるくらいの音量だから、迫力満点。ブルックナーは金管楽器を得意とするらしく、高揚するところでは高らかにラッパたちの音が丸いお月さんの空にめがけて飛んでいくようである。
古文の会で今、万葉集を読んでいる。昨日読んだところから。
「夕されば 小倉の山に鳴く鹿は 今宵は鳴かず。寝(い)ねにけらしも」
大意 日暮れになると いつも小倉山で鳴く鹿が 今夜は鳴かない。寝てしまったらしいな。
山本健吉さんの解説では、「これは、非常に静かな境地の歌である。略、旅に出ると、土地の精霊に誘われて自分の魂が遊離しようとするので、夜分になるとそれを鎮めなければならなかった。そういう意味での鎮魂歌・・・」
この歌からこれが、鎮魂歌であるとは、いまのわれわれには到底読めない。それはわれわれの精神構造そのものが資本主義化している。つまり止まることを知らない。ともかく前に進むこと、進歩すること、成長すること、それはなにやら高い買物ができるようになること、とどこかで思っている。だから土地の精霊に誘われて自らの魂が遊離しようとするなどということは、なんだか文学の話ぐらいになってしまっているが。じつはわれわれ自身も、おごそかなところに身をおくと、そこのところをある意味、誰でも直感することができる。というか、そういうものとして、この国ではこの古の頃からつい最近まで、やってきたのだから、ある種の言葉に引っかからなければ素直に読めるんだろうなぁ。と妙に思うところでもありました。
木村さんの来られた日は、ずいぶんぬくかったんだ。だけど天気予報では冷えると予想していた。で、ストーブの煙突を掃除していたんだ。すると、途中であめがどしゃぶりで降るし、しばらくで止んだが、そんなこともあって戸惑っている間に木村さんらは到着し。ということだったんだ。やはり昨夕から冷えだし、それでストーブを燃やしたのだ。うんやっぱりストーブはいいぜというかんじ。やさしいぬくさなのだ。これは薪ストーブ独特の暖かさなんだと思う。そんなこともあって、木村さんは快調に呑み、速射砲のように喋くり倒す勢い。そう、お二人とも大阪なんだ。北陸のそれも冬の黒い雲がいいなどと言う、このものは口ごもりながら、相手こなたのようすを見ながら、ようやく言葉が出てくる。それも出てくる時にはなんだかその速射砲の言葉に対抗するがごとく、なんだかイカリ言葉になっている。ほんと、なんだか情けないほどに、陰鬱になっていく自分がいて、なんなのだとおもいつつ。それでもストーブのほんわかぬくさに救われたところがあるなぁ。
三重の名張から木村さんが友人を一人連れて来られた。昨日から連れ合いは京都へ展覧会に行ったし。(行商である)、で昼に買物に行き、酒、魚を買ってきた。木村さんのことはここでも何度か書いたような気がするが。いわゆる芸術家である。彼の名張の家は杉林のなかにあるから、それを生かして全面苔寺ならぬ苔ハウスにしている。気難し屋の彼であるし。こちとらより13歳も上なれど、なぜだか一杯飲み始めると、いつしかコラー木村!になる。彼は大家だし、有名な方だからというのもあるかしらん。他所さまから。そんなこと言われたことないみたいで、呑むほどに、テンションが上がってきて、、なのだが。なんかこういう出会いというのもあるよね。などと勝手にいうているのである。いや、そんなことじゃなく、今日書きたかったのは、今旬のアオリイカをさばいて刺身にした。やればできる。ということと、アオリイカいやぁうまかったのである。