勉強会が終わった翌日、遼雲と台所仕事をしながら、今回の勉強会どうでしたか。
などとちょっと話した。その会話の中で、彼云く多くの人がわからない、わからないと
言うけれど。ほんとうにわからないのかなぁ。と。なにって、
そんな難しい哲学的なことでなく、ごく当たり前の事実そのものの
しかも誰でもその人自身のことなのに。
この自分のことを自分という前に、すでにこれはここにある。
それは名前もつけられないが、すべてのものとともにここにおかれている。
それもなまなましくいつも待ったなしに、今ここですべてのものと
ともにはたらきながらおかれてある。と言うことそのものが
そんなに難しいことなのだろうかと。
いつもぼくが感じるのは、一人一人はほんとうにそれぞれの物語があり、
そのそれぞれの思いの中からしかものが見えないと言うことだけは、
分かるし違うと言うことも分かるけれど。
内容はじつに単純明快なことなのだ。それを、わからないと言わせるのは
思考回路の中で、完全に蓋をしてしまっているのではないのか、そんな気がしてならないと。
私は論理的思考の人間だから、と言うのは理由にはならない。
論理的に考えればふつうのできごとなのに、なんともへんだよね。
いや、なんとはなし、わかってるんじゃないんかな、だけど、わからない、と言ってないといけないというのか、わかったー!と言うたらダメっぽいしー、みたいな(笑)
けど、実際そのなまなましさに触れてはいても、それに自分では認知?できてない分、言葉では説明できない=わからない、としか言い様はないんだけど、わかったとも言えない、というところなのかな。
けど、なんかわかる、から、聞けるんだと思うんだけどね。全くわからなかったら聞けない気がするのだけどね。
けど、もうひとつ、わかった、というところからまた改めて始まる?ことがある気がする、というのか、もうわからない〜はいいんじゃないかな、と思ったりするよね。
という長々と失礼しました。
「わからない」ということで、ふうさんのコメントにもありましたが、何かがあると感じるけど、つかめない、言葉にならない状態を表現されているのではと思いました。
一方で、その「わからない」状態を良しとして、スタイルとして「わからなさの中にいる」となってしまうおそれもあるかと思います。それが蓋でしょうか。
私の現成公案の勉強は10年で全くといっていいほど進んでいない、とも言えますが、一方でとても親しく大事なものになっています。
そう思えるのも、わじゅさんや加島さんや、皆さんのおかげです。 そもそも「わかる」ことが最終目標なのだろうか?などとか考えてしまいました。
そして今「わかってないかと思いますが」と言いたい心境です。苦笑