このままでいいわけがない。このままの状態が続くはずがない。こんなことは、さほどの知識がなくともこの世界を生きていると、おのずとなんとなくであれ、明瞭であれ知っていることだった。
ある友が、先日nhkで放映したnhkスペシャル「2030未来への分岐点」を見ろとのことで見た。それはいよいよ食糧難が崩壊の時期に来ているとのこと、10年後の2030年までに手を打たないととんでもないことが起きるという内容。見ての驚きはあまりない。「そうだろうな」「やっぱりな」である。もう10年ほど前になるか、在日米人の友がこちらを買い被りして、全米各地で説法の旅をしましょうと用意してくれた。冬の間を利用して10日ほどかけて、5年ほど続いたか。お陰でアメリカの生の姿を見ることができた。そこで見たことはなるほど「豊か」で広大で「飽食」に満ちていることを実感したのですが、それは反対に人として生きていることの孤独感、寂寥感も強く感じたのです。それはこの島国においてもそうで、この「豊か」さ「飽食」の影で貧困に喘いでいる人、1日の食事を満足に与えられない子供達がわれらの予想範囲を超えてはるかに多いということ。そのことは同時に目を外に向ければ人口75億人のうち10億人近い人々が飢餓状態であること。彼等の未来が奪われている。このことはこの島国と無縁な話などではなく、われらの暮らしがすでに彼等の営みを踏みにじった上に成り立っていること、そのことは同時にわれらの未来も失われて孤独と虚無の道を歩いているということである。
「人新世の資本論」を書いた斉藤幸平は、資本主義の流れが利益の追求がアマゾンなどの樹林帯を焼き尽くして、農地に変える凄まじき動きが生物種を消滅させウィルスを蔓延させているとのこと。それはそうだ。この地球という生命体は多様な生命がいてこそ、われら人族もここに住むことができているのにもかかわらず、いつの間にか本末転倒して、この人族がまるで地球を養っているような錯覚の中で暮らしてしまっている。われらはお日様から、水、口に入るもののすべて暮らしのありとあらゆるものをこの地球に他の生命体に依存して食い繋いでいるにもかかわらずである。この連鎖を止めることができぬまま、ことにこの200年突っ走ってきた。その原理が資本主義である。
私はマルクスの書いた「資本論」を50年来ついに今も読むことができぬままになっていた。それがnhkテキスト100分で名著「資本論」斉藤幸平著を読んでこれをあの1800年代に書いたマルクスのことを改めて思う。今われらに出来ることは、ともあれ知識を得ること、正しき知識を得た上でこの島国で行われている政治のこと、行政のことそしてわれらのそれぞれの暮らしを見つめ直そうと思う。
参考書として以上の本のほかに「武器としての資本論」白井聡とnhkの「未来への分岐」も是非見てほしい。