南風

2021-02-22 21:06:30 | 日記

 昨日今日と少し風が吹いている。外に出るとこの風、暖かいのだ。おぅ南から風が来たぜ!それは正直うれしい!が同時にヤッタァとならないのは、もう少し冬籠りさせてよなんだ。あんまり雪がどさっとくると困るけんど、ゆっくりとやってくださいまし、なのだ。まぁなんとも勝手なことばかり。今日は籾摺りの日、それに大根を雪の中から掘り起こした。雪の中に大根や白菜が埋まっているなんて、なんとも贅沢なことなんて思うもの。

 FB上で磨曜会という詩(俳句、短歌、詩など)をみなして載せている。さっきそこを眺めていたら急に目頭が熱くなった。そのわけはよく分からないが。なんなのだろう、それぞれがそれぞれの暮らしを抱えながら、近所の仲のいい友同士で愚痴やら慰めやらを交錯しているさまが、人としてここにおるよぉということを交錯している。その在り方がいいと、おもったのだろうか。

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伊勢物語

2021-02-17 21:28:56 | 日記

 昨晩は古文の会でした。今伊勢物語を皆して読んでいる。自分で和歌らしきものを作るようになって、このテキストの読み方がいくらか変化が出てきたように思う。それに新聞の投稿欄(短歌や俳句の)も以前は気が乗らなかったら読まなかったがなにやらおのずと目を通すようになった。自分のものはまだもどきだから、なんともだが、人さまの書いたものはなんとなくであれ解ったように思っている。

 それで投稿の和歌や俳句とこの伊勢や古今集などのものとの違いが少し見えてきたように思う。最も大きな違いは千年前の人たちは痛みを身体で知っているとでもいうのか。風景の中にすでに自身がはいっている。現代のわれら自然に対してもどこまでも鑑賞しており、主役は自分なのだ。

 先日、食後のながらtvで子供に料理を教えているという番組だった。玉ねぎを切るシーン、子供に眼鏡ガード、包丁を使うから手にもガード用具をしていた。公にされるから安心安全を強調しているのだろうと半分は思いつつ、こんなことはだめだ、と。玉ねぎを刻むと目が辛いし、指を切るかもしれないそのための保護なのだろう。しかし目が辛くて涙が出ることや、指を少し切って血が出ることの痛さがとても大切なことだと。それはわれらの周りの景色がたんなる風景でなく、切ったら血が出る、枯れるものとしてあるということ。もうひとつついでのこととして言えば、自分たちのじっさいの暮らしからは、見えないけれど(先日も書いてしまったが)このわたしの暮らしの影で、今も食事にありつけない人たちが多勢いることの痛みは、自身が痛みを知らないと想像力が失せるよなぁ、と。

 餓鬼状態にいる人は、痛みを超えて慢性しているからそれ以上のことを考えることが奪われている、このこととわれらの日常はある意味満ち足りているから、それ以上のことは想像できないでいるし、知ってはいても痛みをともわないありようは、ベクトルは対極にありながら、共通するのは他に対する痛みを失っているということだと思う。なにやら毎度のことながら本文とは違うところに流れてしまったが。

 ここまで書いて読みかえしてみると、まるでこちらその痛みをさも知っているようである。そんなことはないし、こんなことを大きな顔をして言えるほどのことは何もないのだ。あーっ困ったものだ。なんとも言いたきものが疼いているだけなのか。

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資本主義のこと

2021-02-14 21:22:59 | 日記

 このままでいいわけがない。このままの状態が続くはずがない。こんなことは、さほどの知識がなくともこの世界を生きていると、おのずとなんとなくであれ、明瞭であれ知っていることだった。

 ある友が、先日nhkで放映したnhkスペシャル「2030未来への分岐点」を見ろとのことで見た。それはいよいよ食糧難が崩壊の時期に来ているとのこと、10年後の2030年までに手を打たないととんでもないことが起きるという内容。見ての驚きはあまりない。「そうだろうな」「やっぱりな」である。もう10年ほど前になるか、在日米人の友がこちらを買い被りして、全米各地で説法の旅をしましょうと用意してくれた。冬の間を利用して10日ほどかけて、5年ほど続いたか。お陰でアメリカの生の姿を見ることができた。そこで見たことはなるほど「豊か」で広大で「飽食」に満ちていることを実感したのですが、それは反対に人として生きていることの孤独感、寂寥感も強く感じたのです。それはこの島国においてもそうで、この「豊か」さ「飽食」の影で貧困に喘いでいる人、1日の食事を満足に与えられない子供達がわれらの予想範囲を超えてはるかに多いということ。そのことは同時に目を外に向ければ人口75億人のうち10億人近い人々が飢餓状態であること。彼等の未来が奪われている。このことはこの島国と無縁な話などではなく、われらの暮らしがすでに彼等の営みを踏みにじった上に成り立っていること、そのことは同時にわれらの未来も失われて孤独と虚無の道を歩いているということである。

 「人新世の資本論」を書いた斉藤幸平は、資本主義の流れが利益の追求がアマゾンなどの樹林帯を焼き尽くして、農地に変える凄まじき動きが生物種を消滅させウィルスを蔓延させているとのこと。それはそうだ。この地球という生命体は多様な生命がいてこそ、われら人族もここに住むことができているのにもかかわらず、いつの間にか本末転倒して、この人族がまるで地球を養っているような錯覚の中で暮らしてしまっている。われらはお日様から、水、口に入るもののすべて暮らしのありとあらゆるものをこの地球に他の生命体に依存して食い繋いでいるにもかかわらずである。この連鎖を止めることができぬまま、ことにこの200年突っ走ってきた。その原理が資本主義である。

 私はマルクスの書いた「資本論」を50年来ついに今も読むことができぬままになっていた。それがnhkテキスト100分で名著「資本論」斉藤幸平著を読んでこれをあの1800年代に書いたマルクスのことを改めて思う。今われらに出来ることは、ともあれ知識を得ること、正しき知識を得た上でこの島国で行われている政治のこと、行政のことそしてわれらのそれぞれの暮らしを見つめ直そうと思う。

 参考書として以上の本のほかに「武器としての資本論」白井聡とnhkの「未来への分岐」も是非見てほしい。

 

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勉強会

2021-02-11 20:42:28 | 日記

 昨日今日と冬の勉強会でした。佐野明弘さん浄土真宗のお坊さんです。20人ほどが集まり耳を傾けていました。ぼくは勉強嫌いやから、なかなかちゃんと勉強しないし、自分の都合のいいところだけを丸をするようにして、学ぼうとするから、結局つごうのいいものばかりを拾っていることになる。人のお話を聞いていても、今こちらの持っている分しか入ってこないから、いったい何を聞いておるのやらと。けれどナマのお話というのは、いわゆるの本読みとは違いこちらが掴もうとしているものを超えて何かが入ってくる。それはたいがいこちらの場合はイヤなもの、面倒な感情である。

 学ぶとは何かと思い巡らしたときに、今のこれとは違う新しい知見なり、感覚が入ることだぐらいに思っていたことがある。フランスの哲学者でレヴィナスは学びとは痛みを伴うものだと言っており、「はい」と思ったことがある。佐野さんのお話はいつも痛みとしてくる。

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バッシング

2021-02-08 20:25:22 | 日記

 例の森さんの言動で大賑わいである。あんまりそういうことで書きたいとは思わないが、何かねこういう時に毎度のように感じるあれ(森さんの暴言に対しての)、まるで吊し上げ状態でこの時とばかりに声高にものをいう風潮に、とてもイヤな感じがするのだ。かの森さんのこと、こちらの長兄と高校の時の同級生だったらしく何かの時にうちの兄貴があいつのことオレ、高校の時から嫌いやった。と、それ分かるしこちらもあういう人のそばにはできるだけ寄りたいなどとは思わない。けれどバッシングすることとは違うと思っている。もちろん正当に言わなくては社会のありようは変わらないことは承知しているつもりなれど、言うのなら森さんだけでなくそのような方は世間にいっぱいいるわけで、そういう方々に面と向かって言いたきものと思っているが、正論すぎるでしょうか。

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