生きていることは虚しい。どこまでいっても独りである。
今朝、ぼくらがKちゃんと呼んでいる彼から電話。わじゅさんは虚しさなんてないでしょうが、と唐突にそこから話を持ち出す。それで冒頭の返事である。えっわじゅさんがと。
どうしてそんなことを言うのか解らないようなことをいうから、ぼくもよくはわかっていない。はっきりと言えるのは、その虚しさから解放されるのじゃないかと思い、山暮らしを、坐禅をやりはじめたのはまちがいないよ。そして、その時々は解きはなれたように錯覚したり、調子にのって忘れていたりだったけれど。なに虚しさは虚しさのままある。などと応えていたら、なんかぼくも妙にほっとしましたなどと言って、電話は終わった。
この虚しさを虚しいと囲うこともある。囲うたまま、私の私がとやっている。田んぼをやっていてふとおもったことがある。いったいこの泥の上で、幾人の人が、何十年何百年何千年と空を仰いでやってきたことかと。虚しさもそうである、いったいいままでどれほどのひとが、虚しさに、悲しみに、苦しみに会うてきたことか。
そう思うと、妙にここにこのまま生きていることそのものが、すでにかけがいのないいまをやっているようにおもわれるから不思議だ。
今朝、ぼくらがKちゃんと呼んでいる彼から電話。わじゅさんは虚しさなんてないでしょうが、と唐突にそこから話を持ち出す。それで冒頭の返事である。えっわじゅさんがと。
どうしてそんなことを言うのか解らないようなことをいうから、ぼくもよくはわかっていない。はっきりと言えるのは、その虚しさから解放されるのじゃないかと思い、山暮らしを、坐禅をやりはじめたのはまちがいないよ。そして、その時々は解きはなれたように錯覚したり、調子にのって忘れていたりだったけれど。なに虚しさは虚しさのままある。などと応えていたら、なんかぼくも妙にほっとしましたなどと言って、電話は終わった。
この虚しさを虚しいと囲うこともある。囲うたまま、私の私がとやっている。田んぼをやっていてふとおもったことがある。いったいこの泥の上で、幾人の人が、何十年何百年何千年と空を仰いでやってきたことかと。虚しさもそうである、いったいいままでどれほどのひとが、虚しさに、悲しみに、苦しみに会うてきたことか。
そう思うと、妙にここにこのまま生きていることそのものが、すでにかけがいのないいまをやっているようにおもわれるから不思議だ。