虚しさ

2013-07-31 21:33:42 | 日記
 生きていることは虚しい。どこまでいっても独りである。
今朝、ぼくらがKちゃんと呼んでいる彼から電話。わじゅさんは虚しさなんてないでしょうが、と唐突にそこから話を持ち出す。それで冒頭の返事である。えっわじゅさんがと。
どうしてそんなことを言うのか解らないようなことをいうから、ぼくもよくはわかっていない。はっきりと言えるのは、その虚しさから解放されるのじゃないかと思い、山暮らしを、坐禅をやりはじめたのはまちがいないよ。そして、その時々は解きはなれたように錯覚したり、調子にのって忘れていたりだったけれど。なに虚しさは虚しさのままある。などと応えていたら、なんかぼくも妙にほっとしましたなどと言って、電話は終わった。
 この虚しさを虚しいと囲うこともある。囲うたまま、私の私がとやっている。田んぼをやっていてふとおもったことがある。いったいこの泥の上で、幾人の人が、何十年何百年何千年と空を仰いでやってきたことかと。虚しさもそうである、いったいいままでどれほどのひとが、虚しさに、悲しみに、苦しみに会うてきたことか。
 そう思うと、妙にここにこのまま生きていることそのものが、すでにかけがいのないいまをやっているようにおもわれるから不思議だ。
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蝦夷蝉

2013-07-30 21:13:05 | 日記
 先日、ひぐらし蝉がいまがピーク、毎朝大合唱というか、それこそ交響曲でと友達に書いたばかりなのに。
今日はそのひぐらしは幾分影を潜めるかのようにしている。その変わりでもないだろうに、蝦夷蝉のギーが鳴いている。これは油蝉とおなじくぼくには風情が感じられず、鳴り止んだあともしばらく頭の中でそのギーが鳴り響いていて、それがどうも気に障るらしいのだ。
 それにしても、蝦夷蝉は9月に入ってからで、ひと月は早いようにおもう。だから、こちらの勘違いか、それともこの2、3日のお天気で雨降りつづいたから、かれらが勘違いしたのだろうか。
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90歳

2013-07-29 21:37:02 | 日記
 連れ合いの母親と暮らしてもう2年ほどになる。90歳である。お年のわりに(こういう物言いも困ったものではある。そりゃ色んな90歳があるのだ。)お元気である。基本的に自分のことは自分でされるからなんの手間もかからないし、連れ合いと2人で顔を突き合わせているより、関係が込み入ることでお互い助かる。その母さんが急に様子がへんである。腎臓の機能が低下してきたから、薬の処方が少し変わったためらしい。
 言うことやすることに、なにか明らかにこんがらがっているのである。いままでは毎日散歩をし、新聞や本も読んでいた。けれど、そんな姿はどこへやら、昼間もだいたいは寝てる。寝ることが増えたせいなのか、あたまもぼやける。見事に動物である。動くものとしてあるのだと再認識させられる。それと、連れ合いが京都へ展覧会に行っているあいだ、その母さんと二人きりになって、こちらが本気でかかわらざるをえない状况になってやっと見るのである。いや、それまでも決して本気でかかわっていなかった訳ではない。けれど、それはそういうつもりでいただけで、責任を負うていないのだ。まったくもっていい加減であることが、この場合も示される。もうひとつ、いまの身体の状態は薬の加減でなりたっているということも、教わったのである。
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災害

2013-07-28 21:08:58 | 日記
 この島国は、モンスーン地帯の温暖なところにある。四季があり、山や海と接しているため食べ物も豊かで、住みいい場所なのだとおもう。けれどいったん雨が降れば、河川は急で山々にかこまれているから、一気に流れることになる。梅雨の時期から台風の頃まで毎年各地に被害をもたらしてきた。
 金沢にいた頃は川の近くにいたから、小さな時から何回か川の氾濫や、家の浸水を経験してきた。あんなおそろしきことは、やはりそうない。
 今日村の総出の草刈りだった。こちらは朝からよく晴れたお天気。汗だくになって村の道路を刈っていたら、草陰にもう露草が咲いている。昼からジャガイモ掘りをした。明日からしばらく雨降りが続くというから、かんかん照りの中、やっているともう赤とんぼが群れている。まだアキアカネのように、真っ赤ではないが。
 かれらはいつだって先取りしている。そして人のように憂うることなく、いまここをただやっている。
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山上の垂訓

2013-07-27 21:26:54 | 日記
 調べものをしていて、マタイ福音書を開いている。
「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。-略ーまた祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よくいっておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。」
 親鸞さんのことばにも、本願ほこりという。懸命に真面目に信心をしていることそのものが、つい自分を頼みにしてしまっている。自分というあり方が破れることが信心というひらきであるにもかかわらず、破れているなどと自らのなかで押さへてしまっている。そういう余談があろうはずもないのにもかかわらずである。
 逆にどうせ自分なんてとか、どこまでいっも結局自分の思いの囲いのなかを少しもはずすことができなくて、周りをうろうろすることでよしとしている。いずれにしても、この身にいつも迫られる問いかけである。
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