冬の勉強会2回目である。今回は正法眼蔵現成公案、講師は櫛谷宗則師。この方はこれと同年輩ながら、修行道場では大先輩、しかも内山老師に最後まで随身された方。老師の著書の校訂などもされていた。しかもこちらとまったく違うことは、こっちははなはだ雑多なもので、本を読むのも、仕事をするのもいろんな事をしながらでないとできないくらい、貧乏性というか、ひとつのことに集中しない。けれど宗則さんは、最近では眼蔵しか本を読まないらしく、その読み込みにかける意気込み、その深さ、その丁寧さ。そしてなにより驕る事なく、たんたんとあたりまえにされるそれが、もうおつき合いをして40数年になるけんどいささかもかわらない。たまたまこのためにも帰って来た若者が、講義の内容は専門用語の羅列で、はなはだわかりづらかった!けんど眠くなるどころか、その熱い熱気だけはこちらに響いて、目を見開かせてくれるようであった。と、すごい感想を述べるくらいでした。
昼前に東京から6人の30代男女が来られて、どなたも雪の多さに驚くこともさりながら、一昨年に参禅に来たときの、印象が忘れられなくて来たとか。彼らの目線になって思いめぐらせば、東京の人ごみから1時間あまりで山奥の寺そのものがかまくら状態のところで、いろんな制約から外れて、沈黙のときを得ることができたよろこび?が、どなたの顔にもあふれていて、からだ全体がほぐれている様子だった。ほんに無用、無為のかがやかしい時間を共有できたこと、こちらもうれしかった。明日はこちらの冬の勉強会2回目、正法眼蔵講義、櫛谷宗則師。泊まりがけでお話してくださる。
この冬、寒さがことのほか厳しい。雪も毎日降る。んだもんで、雪作務は毎日あるんだ。東京にバイトに行っていた若者が一時、所用で帰ってきている。このチャンス逃すまじとばかり、軽トラを引っぱりだして薪運びを。本堂裏手の雪除けも。毎冬は、本読みに集中したいのだが、なかなかさせてもらえない。昨冬は歎異抄を読んだから。こんどは正法眼蔵随聞記をともくろんではいたんだ。ところが、図書館からの借りてくる本だけで手一杯の状況なんだ。
昨日はマリオが富山から富山の山里で暮していると言う山里のおっちゃんを連れてきた。まことに快活な方で、婦中町の山の中で代々暮してきた方である。65歳というけんど、見た目もおしゃべりもまことに絵を描いたような爺様で。しかしながらじっさいにやっていることを聞いたら、お一人で田圃は2町、レンコン栽培が6枚、椎茸も300本、舞茸、ナメコなどと食菌して出荷しているとのこと。それらを朝早くから夜遅くまでやっているとのこと、全身リュウマチにかかってリハビリしながら。これだけの仕事をこなしている。田舎の在所の人のパワー、おそるべきものを持った人が時にいることは、知ってはいたけんど、この人もそうだ。
方言まるだしで一人でつばを吐きながら、とつとつとしながらエネルギッシュに語る。こちらは合いの手を入れるだけでいっぱいなのだ。語りは田圃の話しから、奥様との離縁した話しやら、親父さまのことなどあちらこちらに飛びながらである。そんななかでこの「だらがかってる」が出てきた。ダラとはバカとかアホの意。金沢あたりもダラはよく使う。このダラ、強い調子でダァラ!というのと、自嘲気味にダラぶちでね。などなどと、とうぜん相手とのもんだいや話しの内容で意味合いは微妙に違う。このだらがかってるは動詞になっている。これは親父さんとの話しで、昔親父から説教されているとき、バカにして聞いておった。そのことをだらがかってるというのだ。こういう使い方をする方とはじめてだった。この話しの流れは、そうやって聞いた説教、今頃になってようやく解るし、親父の気持ちもすこしだけわかるがやっちゃ、と。そして親父っちゅうもんはいつになっても越せないもんながやねぇ、としみじみとしながらいたるところでお陰さんで、と連発するのでした。
ひさしぶりにこちらから出かけてある方に会ってきた。以前から、哲学の会に参加しているし、こちらにも来られてはいるけんど、なんせ対面でゆっくり語ったことがない。こんなこと、ぼくにしては珍しいことで、こちらに来られる方とは、二人だとゆっくりとお話はできるけんど。なんというか、だいたい会話をするということがほとんどの場合、ヘタクソというか、その醍醐味を知らないように思う。なんかね、情報交換か、相手に合わせての話しになってしまって、何をどう考えているのか、ということの中味をかみしめ会う深さの掘り起こし作業を知らないのだと思う。さいわい彼女はこちらから見るところ、自分で考え自分でかんずることができるタイプなのだ。その連れ合いの彼にも一度お会いしたかったし。自分で考えるということのむずかしさを最近になってようやくすこしだけ学ぶことができつつあるかなぁ、と思うから。こんな彼女のように、まっすぐ深くそのまま考えることができるタイプと話すと、どきどきするくらいおもしろいのだ。(こちらの偏見かも知れないけんど、知識や知恵があるとか、切れものなどということとは違う)そして彼女はまだ40代まんなかぐらいか。しみじみと今の時代は女性性の時代なんだなぁと実感しました。こんないい方も月並みなのだろうね、混乱期、動乱でも生じると、男性性の暴力装置(腕力、論理、知識知恵の振り回しなど)の出番がある。だけんど、一見とても平和なこの島国社会のなかでは、暮しにそったというか、大地に足をつけた物言いが大きな力を発揮するからだと思う。彼女云く「わたしバカとはお話しできない人なの」と、照れもはじらいもなくそのままいう。たとえば、「いろんな学者さんや政治家さんに会ってきたけれど、ほとんどばかじやない。だいたい自分のことを、バカだと思ったことがないものね」とずばりくる。うん、おもしろかったのだ。