大根の季節がやってきました。去年は大根にちょうどいい気候だったのだろう。みごとに太り、そして立派、うまかったのだ。今年は、9月10月と高温多湿、里芋が沢山穫れたけんど。えーそれでも沢庵大根の方はまんずで、朝から抜いて、洗って干したのだ。これで、2週間ほど干してから漬けることになる。昼から庭木の剪定をした。山茶花、椿、金木犀、がそれぞれ枝を広げてたがいにくいこんでいる。さらにその上に、泰山木、その上に欅であるから。混みいっているところを、だいぶ刈り込んだ。雪の重さで枝が折れてもかわいそうである。
今日は雨降り、調べものありて久々に図書館に。近ごろ本屋に行かなくなったから、なんだかこの書棚を見ているだけで、うれしくなってくる。そんななかで、つい手に取ったのが「等伯」上下、安倍龍太郎著。3、4年前にすこし評判になっていた。等伯は当地、七尾の出身ということもあり、それにあの松林図のすごさにうたれていたからね。ふだんはほとんど小説読むきもちがなくなっているのだ。で、こんなの借りたら今読んでいるもの、止まってしまうじゃん(最近、本を読むスピードが遅いのだ)などとおもいつつ、それに小沢昭一先生のものも借りてしまったもんだから・・・。で、家に着くなりもう読み始めてとまらないのだ。はい、小説ってやっぱすごいのだ。
今朝の冷えたこと、関東周辺では雪が積もったらしい。どうりでという寒さだった。暁天の坐禅、毛布をかけて坐っているけれど、いよいよ空気までも冷えてきたなぁと、かんじていたものね。夜になって空を見上げれば、星が満天に輝いていた。寒さは苦手なんだ。けれど妙なもので、このきーんとした寒さがなにやらここちよい。
万葉集をみなして読んでいる。山部赤人、柿本人麻呂とならび称される万葉歌人である。
不尽山(ふじのやま)を望む歌
天地の 分かれし時ゆ
神さびて 高く貴き
駿河(するが)なる 不尽(ふじ)の高嶺を
天の原 振り放(さ)け見れば
渡る日の 影も隠らひ
照る月の 光も見えず。
白雲も い行き憚り(はばか)
時じくぞ 雪は降りける。
語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ。
不尽の高嶺は。
大意(山本健吉)
天と地が分かれた大昔から、神々しく高く貴い駿河の国の不尽の高嶺を、
大空遥かに振り仰ぎみれば、空を渡る日の光も山にかくれ、照る月の光もみえない。
白雲も山にさえぎられて行くをはばかり、絶ゆることなく雪が降っている。
いつまでも語り継ぎ言い継ぎて行こう。この不尽の高嶺は。
奈良の都にいて、大和三山が神の山として崇められているなかで、富士山というものは
どう映っていたのだろうか、なんとなくひっかかっていたのだ。それがこの句によって
そうかやっぱり、東国といえどもその神々しさをかんじていたのは、同じだったんだ。
もうかれこれ、15年ほどは経っているのではないか。絵はがきである。題材は時事的なものだったりさまざまである。斬新さと可笑しみがある。金沢の蒲池さんである。二月に1枚ぐらいだろうか。かれ自身はもっと描いているのだろう。定年退職をしてようやくゆっくりとしようという矢先、最近奥さんに先立たれて、やもめ、かもめだぁと言っている。そのせいか絵のタッチもすこし変化が出てきているようだ。人というものは、ほんと関係存在でできているらしいから、一人になると困るし変らざるをえないものね。