短歌のこと

2021-01-30 20:30:01 | 日記

 昨年秋から短歌の会というか、俳句でも川柳、詩でもいいというそういう場所をFB上で仲間達とひねっている(磨曜会)。ここは誰か選者がいるわけでもなく、自由に投稿できるということもあるのだろうか、思っている以上に投稿する人が増えている。こちらの言い分だと、人というのは言葉を生きている動物やから、言葉が自分たちの思っていることより数段深くそして長い時に耐えてきている。しかも厄介なのは言葉というものは自分のものなんかじゃなく、人のこの場合は、ここの島国に共通している(これも意外なことで驚いてしまったけれど、日本語という言語は少数者のものかと思いきや、確か世界で8番目に多く使われている)自分のものではなく共有しているものなのに、じっさいの有り様は自分の言葉になってしまっているということ、それがどんなに幼稚であろうと高等なものであろうがその人自身のものであるということが面白い。しかも尚、それ自分のものかと言えば、そんなもの自分のものであるはずもないのだ。つまり両義性なんだと思う。そのうえで詩(ここでは俳句、短歌などのこと)を書くということは、日常に使われている言語、穂村弘(短歌の友人、はじめての短歌)に言わせると生きのびるための言葉、つまり会社などの人間関係の中で使うものじゃなく、生きることそのものに直接する言葉、響く言葉が面白い詩になるのだと言う。穂村は、「その輝きの源というのは、“生きのびる”ということを顧みずに、“生きる”に純化した魂の輝きがある。略そう言うことです。“生きる”ということの憧れですよ。それは往々にして“生きのびる”ということの強制力に対する反発の形になる。その“生きのびる”という強制力から自由になっているものを見ると、心が吸い寄せられる。」

 もうこうなってくるとある意味詩を作るための心得の話だけではなくなり、人生態度にも直結するようでもあり、面白い。もう一人やはりの歌人永田和宏(作歌のヒント)は、「作者が読者に(わかってもらいたい)という気持ちが強すぎることに原因が、ーそのためにはー念を入れない、駄目を押さない)これねぇまだほんの少しだけど、今やっているものには耳が痛いことだ。

 ともあれはじめこんなことをいうつもりはなかった。それが勝手にこんなふうに展開してしまったけれど、自分で言葉を紡いでいる気になっているけれど、じつは言葉の方が出口を探してウロウロしているのじゃないか。だからしてその言葉の源であるらしいそこに触れていくしかないのじゃないか、なんて思ったのだ。


あすなろ通信から

2021-01-27 21:08:34 | 日記

 今日あすなろ通信を持ってきたので、そこから抜き書きを。

 二十歳代の頃、心身共に病み、疲労しきっていた頃、薪の囲炉裏で暖をとっていた農家で数日お世話になりました。その薪が燃えている様を終日眺めているうちに、その疲れ切っていた心身が慰められ、癒されていくのを感じました。その時、古の先祖たちは、何百万年の間この火を中心にしての、家の円居や団らんがあったことに気づかされました。今日では、この火はすっかり巷から消えてしまい、たき火はむろんのこと、石油や電気の人工的な灯りや暖炉だけの生活となってしまいました。 

 火は長い間私たち人間の太陽や神々、神秘としての生命の化身だったのですが、それが自らの手で造られるようになるにつれて、それの代わりにお金や物が、そういった神秘性と取って代わるようになったのです。それがはっきりとしたのは、ごく最近のことかもしれません。私たちは、一体何を拠り所としてこれからを生きていこうとするのか、それは行き先がはっきりとするに従って、一人ひとりが問われていくことなのかもしれません。


蒼穹

2021-01-21 20:48:00 | 日記

 昨日今日と素晴らしいお天気でした。昨日夕方迷犬と散歩していて空が深い青だった。そこに半月が浮いているようにあった。これ蒼穹というんじゃなかったっけと。早速使って見た。浅田次郎の小説タイトルにあったような・・。その前の日の雪降りで空気中の塵も落としているのかな、よく知らないけんど。なんとも空気が澄んで雪の白さの果てに真っ青、吸い込まれそうな青でしたよ。今朝はマイナス10度ぐらいまで下がったように思う。本堂前の廊下でマイナス4度だったからもう手足が痛く感じてた。でもこんな時の光景ってやっぱり最高で。これだからニンゲンやめることできねぇ、と思うものね。いやはやすんばらしいものを、広げてくれるね。なには。


トランプ現象

2021-01-17 10:47:06 | 日記

 トランプさんがアメリカの大統領になったときからの妙な違和感。これが最後まで消えないというか、辞める間際になっても強烈なエネルギーを発散している。ある意味これだけ人気があり話題になるということそのものが、アメリカという国の一端というか半分をしめているように思う。そのありようは、アメリカという国のできごとだけの話ではなく、今の人類ということも象徴している。それがコロナ禍とも相まって二重写しのように見える。

 一つにはグローバル社会というのは国境という枠組みを超えてものはどこまでも、どこからでも流れるということ。その流れは人の生き死ぬの時間の流れを越えてしまっている。それゆえわたしという人生の生き方やありよう、探し方がはなはだ乱雑に、速さや成果をだけを求められて右往左往するしかない。たとえば回転寿司のように。こちらのように今までのカウンターだけのお寿司屋さんに入ると、いまはなんのネタが旬なのか、何が美味しいのかということをある意味詳しくないと注文もできない。言葉が臆しているから食べたいものを即座に言えないもどかしさ、店主と気安く会話できない者にとってはとてもハードルが高い場所だった。それがどうだろう最近の回転寿司はパネルに軽く押すだけで、ネタが新幹線に乗って早いスピードでしかもアナウンスつきで目の前に走りくる。そのパネルを見るといまは何が旬なのか、店主のお勧めなどとどこまでもサービスが行き届いている。そんな回転寿司に飽きたものは、こちらの三男が咋春から金沢の創作寿司店に(予約を1ヵ月前にこちらからは何も注文できない)行っているが、高級食材を使って濃いものばかりを出す。こちらのように鰯だの鯵などが好きなものは、困ることになる。なんといったらいいのだろうか、おのれの欲望だけがむき出しにされていく社会とでも言えばいいのだろうか。生きていることの実感を感じることができにくいあり方になっているから、知らぬまにリアリティなるものを探している。リアリティなるものを探そうとスマホなどをいじることになるから、生身の人との関係は煩わしく、知りたきものだけ使うときだけなどと動くことになるから、いつの間にか自身がもの化していることに気がつかず、憎悪や正義なるものを掻き立てるように自らの欲望だけがリアリティの現場になっているさまが、トランプ現象なのではないだろうか。そんな中で川柳のような歌を詠んでみた。

 

 欲あふれ寿司もアダルトもニュースも流れ流れてなにも探せず

 面の皮はがされても気づかず藪を彷徨い手放しもせず

 われのものと自得しておらぬか前も後も果てしなき道ここがはじまり


ドカ雪

2021-01-10 17:25:16 | 日記

 昨夜はやけに静かだったんだ、こんな時は要注意だ。粉雪がもうもうと降っているからだ。

 案の定今朝は玄関戸が開けられないほど積もっている、お陰で家の後ろ前、各小屋の屋根の雪下ろしと1日仕事だ。毎年5月ごろか立山アルペンルート開通のニュースが流れる。あの雪の壁は15 mもあったろうか、こちらは背丈を少し超えるくらい2 mほどの壁が除雪車通った後にできており、ほんに雪国だ。