輪島の街中の製材所まで何回も通っている。花は農家の庭先も街の玄関先も色んなものが咲いている。なれど向日葵が咲いているのはうちだけではないのか。向日葵は大きくなるから、困るということなのだろうか。今はそれこそ色んな花があり、その意味では流行遅れなのだろう。こういうものもはやりすたりがあるものね、ホームセンターで売られているカラフルなものにこちらは興味がないからなぁ。
いよいよ夏本番です。ここは街中と比べれば言わば避暑地である。それは、長い庫裡の廊下などで机を出して本でも読んでいれば、まことに涼しい。が毎年、真夏は汗をいっぱいかく。風呂薪つくりである。市内の製材所から、製材するときにでてくる端材をもらって来て、薪にしている。例年ならばだれかしら助っ人がいてくれるのだ。今年は今のところだれもいないのでなんとか一人でやっている。汗がぶうあーとでる。鉄管ビールの美味しいこと。ほんと水がうまいのだ。
人麻呂の名前ぐらいはこちらでも知ってはいるが、さてどんな句があり、なにがいいのかなどと問われると、さっぱりわからなかった。解らないのは相変わらずなのだ。けれど、こんな句ならこちらも共感できるかなというものが少しずつでてきたように思う。
有名どころらしい。
ひさかたの 天の香具山。このゆふべ霞たなびく。春立つらしも。(巻十、1812)
東(ひむがし)の野に 陽光(かぎろひ)の立つ見えて、かえり見すれば、月傾(かたぶ)きぬ。(巻一、48)
1300年前のものとは思われぬ。というか、こういう言い方が長く伝へられてきて、こちらの心情、情景としてすでに育まれていたんだということに、あらためてその意を強くするのだ。なにげなく思っていた自分の感情なども長い時間の中で形成されていたんだ。
鎌倉にあった螢山堂、能登に移住してから「あすなろ通信』に変わったのだ。その最新号55号から引用する。
私自身の目は、自分で見ることができません。他人の目は、見ることができます。自分の目のことは、見えませんし、修正しようという気も起こりません。その方法も見当たりません。しかし、他人の目のこととなると、よく見えている思っている分気になり、批判し、色々言いたくなってきます。自分の見方、思い込みで、他人のことを誤解していることが、昔から度々あったはずなのに、やはり今の自分の目や態度のことは、問題にすることが余りありません。
私達の生きている日々の出来事、あらゆるものの風景も、私の目や思い込みで生じていることが多分にあると思っています。私の目は、私独特のものですから、思い込みは当たり前かもしれません。しかし思い込みの一端が、ひょんな拍子に外れた時、今までと異なって見える相手や風景にびっくりすることがあります。身体や生活態度、現実の状況の改善も、先ず頑に思い込んでいることに、気づいていくことから始まると思っています。 2016年7月9日
年に一度夏の暑い時期に、その村の草刈りは行われる。村の人口が毎年少なくなっている。そんな中での草刈りだ。男の人の方が少ないのではないか。平均年齢は75ぐらいだろうか。村の世話をしてくださっている区長さんもうだれも代わりがいないからその人が、毎年引き受けている。区長さんはまだ青年部だからな、というた方が75歳。言われた区長さんは69歳。とはいっても近頃の若者などと比べると、はるかに仕事はできるのだ。とはいえ、毎年同じところを草刈りしていると、明らかにこちらの仕事の量は増えるのだ。