念仏者の風光

2019-06-30 21:28:43 | 日記

 雨が降り続いてこの三井地区でも避難勧告が。ここは最も上流にあるゆえ、水がつくということはないが、下の田んぼではたいへんだ。あの小さな沢が一気に竜に変身して田んぼそのものが川と化す様は、自然というものがつくづく人の範囲をはるかに超えるものだ、ということだけを教えられる。

 そんな雨降りが続いているゆえ、本読みを。先日ある方から頂いた御本を開いている。林曉宇(1923〜2007、86歳、暁烏敏の晩年の弟子)念仏者である。それの選集である。真宗門徒の凄いところは、これはと思う方の説教集や講義本を周りの方達が本にして形を与えることである。「聞法」といってともかく聞くことに徹する姿勢がすごいのである。こちらなんぞついおれだったらこうだとか、あーだとかいつでもこの自分のことを中心にすえて取り掛かるそこを、徹底して諌める。

 「かがまねば 出入りかなわぬ庵の戸は 高き頭を知れの教えぞ」

 「どうにもならんというものが 人間には大事なのです。それだけが(我)を破って行くのです」

 師匠の暁烏敏の言葉を引いて「なんまんだぶつというのは、自分をだらじゃなということに気付いた者の口から出る言葉である」

 「合羽に水かけたようなもんで、浴びるほど教えを聞いても、御恩を浴びても、ちっともしみこまん」

 「この世で一番大切なこと頭を下げること 一番つまらぬこと高慢 私の人生観はこれに尽きる」

 この自分というものが一番大事だし、かわいい。だけんど、それでは最も大事なものがわからん。とはっきり言われるここが面白いところ。生きることは苦しみである。と、仏教ではいう。生老病死と。老いることが苦しみであるとは、この年配になってしみじみ思うこと。若い時はそんなこと露とも思わないし、身体が自由に動くことや頭が色々めぐらすことの素早さに疑問が出るはずもない。けれど、ほとんど毎日の出来事、現象に追われているわれら、なにかの拍子にこの自分と言っているこれにはなんにもない。あるのは底知れぬ闇、虚しさだけがとぐろを巻いている自身に出会う時、そのありようがどうももっとも大切なときなのだ。老いる上に身体の不調をきたす。側にいる者にはうとまられる。ということがあって初めて、この身の上に起きているありようをこの身でいただくことになる。信心というのはこういうことだと言われる。

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愛しい

2019-06-29 20:59:40 | 日記

 昨日は子猫や小さき孫の仕草、動きが愛しい。と書いたのでしたが、それを書いてしばらくして浮かんだことは、老いている姿も愛しい、だよなぁと思ったのです。老いている当の本人は色々な思いはもちろんありましょう。が、小さきもののヨチヨチ歩きなどについ手を添えたくなる。それと同じくよろよろするお年寄りにもつい手を添える、これはこちらがそうしなければではなく、そうさせるものがもう組み込まれているのだろう。その意味での人とはすばらしきものだ。もう一つ言えば、小さきもののありようは盡十方界自己でしょう、老いる姿は盡十方界全身でしょうか。

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子猫のこと

2019-06-28 21:13:53 | 日記

 子猫がこの家に来てもう一ヶ月過ぎた頃でしょうか。友が娘とその孫を連れて久方ぶりに遊びに来ました。その友とは結局、毎度のように呑んだくれて騒いだことでしたが、その1歳すぎの孫の表情や仕草が、なんだかね子猫と基本的におんなじなんだと、あらためて感嘆したなぁ。なんというのでしょう、泣いても笑っても動いてもあらゆる動き、そこにそうやって、ただいるというそれそのものが晴れ晴れしいというか、うれしさに溢れているその感じだけがこちらに響いてきて、妙にしあわせな気分にしたっているようなのです。どうも生きているということの根っこは、これだよなぁと思わずにいられないような気分にしてくれます。

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雲居

2019-06-26 21:35:43 | 日記

 昨晩は古文の会でした。古今集を読んでます。句によって違うのですが、おおよその句は解説なり現代語訳を読んでわかるのですが、時にそのままでも読める、わかるものに出会うと何やら不思議なもんである。今から70年前の言葉、いわば戦争中の言葉でもずいぶんと分からないはずである。それが一千年も前の言葉が読める通じることの、すごさは格別なものがある。けれど、いまでは全く使われなくなった言葉が、昔もいまもすごく大切なと思うほど身にしみる言葉が多い。それは今と比べてのことなのだろう、言葉そのものが身体感覚でできているのだ。なんというのだろうか、そこから照射されるように、今のこのわれの文でもそうで、自分の想いだけが大事というか、言葉や頭であくまで理解しようとするそこが、決定的にちがう気がするなぁ。

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説教

2019-06-22 22:03:26 | 日記

 今日は朝早くに福井の鯖江の真宗のお寺で法要があり、お説教しろとのことでして来ました。午前と午後の2回のお話です。ほとんどが年配の方ばかりです。こちらと同じ自分のことをどうしょうもない奴だと思っているものには、ぼく自身のことですからある意味語りいいのです。けれどふつうお寺に来られる方の多くは善人です。こういう決めつけは甚だよろしくないのですが、自分自身のことぼんくら、凡夫と思っていますが、まぁどうしょうもない奴だとは思っていません。いわば、ふつうだと自分のことを囲っています。ですからいいお話を聞いたと言っても、それは何か人生そのものの喜びと昇華するようなことではなく、なのです。そこで、話し手のこちらとすればどうすれば、聞いてもらえるかということと、聞いておられるその方自身の問題として受け取って欲しいと、そう思わないと語れないものがあります。そうかと言ってこっちサイドの勝手なことや高圧的というのんか、高等なことを(話すことできませんが)申せば聞き耳を立ててはくれません。それでなるべくわかりいいお話で、という感じで話をしようとすると、何やら途端に知ったものが」知らないものに向かって、それこそ「説教」している感じが大有りで、ともあれこちとらが疲れる。それで毎年そのお話の原稿を作るときほんに四苦八苦、七転八倒しながらですから昨夜はろくに眠ることもできずの状態で、やるのですが。その疲れ切った中でやるからなのでしょう、ともあれくたびれきって、ようようのていで帰ってくるのです。そんなものですから、今夜のお風呂のなんとも有難いことかお酒のなんとうまいことか、の1日でした。

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