雨が降り続いてこの三井地区でも避難勧告が。ここは最も上流にあるゆえ、水がつくということはないが、下の田んぼではたいへんだ。あの小さな沢が一気に竜に変身して田んぼそのものが川と化す様は、自然というものがつくづく人の範囲をはるかに超えるものだ、ということだけを教えられる。
そんな雨降りが続いているゆえ、本読みを。先日ある方から頂いた御本を開いている。林曉宇(1923〜2007、86歳、暁烏敏の晩年の弟子)念仏者である。それの選集である。真宗門徒の凄いところは、これはと思う方の説教集や講義本を周りの方達が本にして形を与えることである。「聞法」といってともかく聞くことに徹する姿勢がすごいのである。こちらなんぞついおれだったらこうだとか、あーだとかいつでもこの自分のことを中心にすえて取り掛かるそこを、徹底して諌める。
「かがまねば 出入りかなわぬ庵の戸は 高き頭を知れの教えぞ」
「どうにもならんというものが 人間には大事なのです。それだけが(我)を破って行くのです」
師匠の暁烏敏の言葉を引いて「なんまんだぶつというのは、自分をだらじゃなということに気付いた者の口から出る言葉である」
「合羽に水かけたようなもんで、浴びるほど教えを聞いても、御恩を浴びても、ちっともしみこまん」
「この世で一番大切なこと頭を下げること 一番つまらぬこと高慢 私の人生観はこれに尽きる」
この自分というものが一番大事だし、かわいい。だけんど、それでは最も大事なものがわからん。とはっきり言われるここが面白いところ。生きることは苦しみである。と、仏教ではいう。生老病死と。老いることが苦しみであるとは、この年配になってしみじみ思うこと。若い時はそんなこと露とも思わないし、身体が自由に動くことや頭が色々めぐらすことの素早さに疑問が出るはずもない。けれど、ほとんど毎日の出来事、現象に追われているわれら、なにかの拍子にこの自分と言っているこれにはなんにもない。あるのは底知れぬ闇、虚しさだけがとぐろを巻いている自身に出会う時、そのありようがどうももっとも大切なときなのだ。老いる上に身体の不調をきたす。側にいる者にはうとまられる。ということがあって初めて、この身の上に起きているありようをこの身でいただくことになる。信心というのはこういうことだと言われる。