蓮田にレンコンを植えたのは4月の初めでした。それから3ヶ月近くたちました。葉っぱが立ち上がってきました。早いものは蕾もでてました。今日その蓮田の草取りでした。田んぼの草取りは目の前に草が広がるから、それを追うようにしてやっていると、ずーっと中腰のままやっているわけで、気がつくとイテテになっている。ほんと現象しか追えないのだと、ここでも承知する。
昨日は古文の会でした。日本霊異記を読んできて1年半ほどで読み終えようとしている。古事記、万葉集と読み継いできて思うことは、漢字を中国から200年頃に取り入れてから、彼らの語りはもちろん縄文時代からあるわけで、そこへ漢字を当てはめて文章を独自に作ってきた。それから、600年後の平安時代に入ると、カタカナやひらがなを造って、より自在に造ってきた。そのすばらしさにあらためて驚く。しかも漢字の本来の意味を壊すことなく、そこに独自の読みを与えて意味を広げ深くしている。この「あからしび」という言葉もそうである。現在ではこの読みは失われているが、確かに意味としてはこうだとうなずけるのだ。懇願の懇で、懇び(あからし)と読ませる。意味はこの小学館の「日本霊異記」の注では、心から歎き悲しむ。とある。心からの痛切な願いのことを懇願というのだったんだ。今の意味は、ほとんど「ねんごろ」や「ひたすら」で。この「心から歎き悲しむ」からはずいぶん遠くなっている。言葉というものは、時代や社会のありようと密接にかかわっているから、とうぜん変わりゆくものとしてあるのですが・・・。こういう意味が無くなった例や変ったものは沢山あるのだろう、ということは学んでいる。
イノシシの被害については、何度か書いている。確実に1,5倍づつ増えている。ということを実感するようなことが起きている。春先に生まれただろう子イノシシが、かなり大きくなった頃なのだろうか。犬のアキくんと散歩するなかで、イノシシの落とし物がかなりの頻度である。それは自分たちの存在をアッピールするかのよう。そんななか、今日ここの住人のジャガイモ畑が荒らされた。もう少しで収穫というところ、このやろうである。それで連れ合いが、こちらもやられる、なんとかしてアッピールするものだから。蓮田のところでもした青色のビニールヒモをジャガイモ畑とサツマイモのところに張ったのだ。やれやれである。ともあれ彼らも食い物がないのか、必死なのだ。
アフガニスタン、イラク、リビア、シリアなどこれらの国に共通しているのは、アメリカなどの国が無理矢理入ってきて、強権体制を壊したところである。(シリアはまだ現政権が倒れていないが)これらの国まことに滅茶苦茶にされてアメリカなどの国の傀儡政権ができて、支援金だけを頼りに暮しているようなところである。そんなところで果たして、これからどうなるのだろうか。この混迷からどう抜け出して自力で立ち上がることができるのか。と、思っていた。昨日の新聞記事(東大作さん)でそんなことに奔走している方がいると知って、すこし安堵。というか、やっぱり本気でそのことを考えている人はいるよなぁ、と。こういう仕事と言うか、運動はつねに自らの正義が問われる。この正義を楯に、ヨーロッパ流の民主主義をもちこんで現場を混乱させてきた歴史がある。そして、この「正義」や「平和」こそがやっかいなのだ。現実に現場の彼らはどうしたいのかを、そこで対立している勢力もふくめていろんな人たち、ほんきで自分たちの国を自分たちで造ろう、造りなおそうという人たちをつなぎ、対話させ、ともあれ未来のための一歩を踏み出す手伝いというか黒子役を担っている人のようだ。世界中にもこういう方はいると信じたいよね。
毎年この時期、福井にある真宗のお寺に説法に出かけている。お寺での説法がもっとも苦手である。お話がすでに予定調和としてあり、なにせ手慣れた年配の方がほとんどなのです。終れば、はいよくできました。と言う感じで、毎度その住職さんにこちらを呼んでくれるだけの、なにか理由があるのだろう。それに応えるべく奮闘。その度に、まいど沈没しているのだ。それで今回も原稿練り上げる段階から、なにやらぐずぐずしており。いよいよ明朝早く出発なのに決まらなくて困っている。うん、そう、こんなの書いてるバアイじゃないのですよ、ね。