思い込み

2012-11-29 21:37:58 | 日記
 友より来信あり、結局わたしというもの思い込みで出来てい
るということが、はっきりとしたことが大きい。と。
 そうだけんど、と往信に、この「思い込み」というやつは、
一つ二つででき上がっているものではなく、細かくひだ状に
なって、幾重にも重ねられてできあがっているふうである。

 だから、一つ二つ壊れるくらいが活性していいけれど、
大部壊れると病んだり、自死することにつながる。
その意味ではこの「思い込み」否、「思い入れ」がわたし
なのです。わたしを生きていくということは、つねに
細かいひだの思い込みははがれ落ち、同時に新しい思い入れ
ができており、まさしくわたしというかたまったものなんか
じゃなく、じつにナマナマしきもの、ニーチェじゃない
けれど、生成という言葉がここではぴったしだとおもう。

 ともあれ、あなたが言われるようにそういうものとして、
これはあったと俯瞰することができたということが
大きいですよね。

 でもそうかといって、悩みや困る、苦しみは無くなる
わけはなく、かえってそれがわたしの現在をみせてくれる
もの、ということがおもしろいですね。
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彼岸花

2012-11-28 21:09:20 | 日記
 今日はときおり晴れのまずまずのお天気。こんな日は逃すまいど。
彼岸花というやつは、ちょっと変わっている。花が咲くまで、葉も
幹もないのだ。いきなり新芽がするると、伸びてくるとやがてその
先に花芽がついていて、花火のようにどーんと開くのだ。

 で、その花の茎はやがて枯れる。枯れた後から、葉が伸びてくる
のだ。だから今頃、多くの草花が枯れる時期になって葉が瑞々しい
のである。

 お墓、古墳の前の斜面に彼岸花がいっせいに花が開くといいだろ
うなと。去年から植えている。ようやく半分ほどは植えたか。まだ
残っているところに植えるのだ。

 そんなわけで、去年もとりに来た河原にやってきた。前にも書い
たけれど、以前はよくきれいに咲いていたのだ。だけど、もう花の
姿を見なくなって、10数年も経ってしまったのだ。原因はセイダ
カアワダチソウがびっちり占めている。それに葛や笹までも繁って
おり、彼岸花の姿が見えないのもいたしかたない。なれど、河原
だから土は良く肥えているせいか、葉は勢いよく伸びている。
まわりはほとんど雑草で覆われている。それを掘り出して球根を
持って帰り、さっそく古墳のところに植えたけれど、タイムアウト
みなまでできなかったのだ。
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ごっとん

2012-11-27 20:42:18 | 日記
 朝方はときおり、お陽様も顔をみせていた。けんど強い風で、
葉っぱとともに雪も一緒に舞っていた。午前中はお米の発送やら
をやっていた。雪が本格的に積もってしまうと肥え汲みができなく
なる。これはやばいことだ。なにがなくても、ともあれ食べるよ。
食べると出るんである。このでるんが、いっぱいになって始末に
困るとそれこそ、うひょーだぞぉ。そんなんで肥え汲みしました。
こんなん今時やっている人そういないだろうな。
 これなんちゅうか、じつにいい仕事です。役者の小沢昭一は
東京浅草界隈に住んでいるんだけれど、彼云わく、やっぱりなには
ごっとんにかぎると。あんなものシャアーと流したら、だめだろう
といっていたけど、いまだにがんばってごっとんかな。
 あのー臭いはなにだし、始末にこまるしなれど、なんというか
妙にいいというか、おもしろいんだよなぁ。
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苦しみ

2012-11-26 22:09:36 | 日記
 昨日は久しぶりに快晴の一日で山に入って木を切っていた。
一転今日は一日雨である。はれて机に向かうも、原稿依頼の
締め切りが迫っている。それで、せっせと書いている。
 途中で調べものをしていて、本を読んでいたらそれは仏陀
最後の旅の様子を書いている、教典の解説である。仏陀は
生きることは苦しみであると言われた。しかし、多くの人に
とって生きていることは、よろこびでもあると思いたいから
この箇所では、仏陀自身の教説というより多くの人の願望を
受け入れて是を編纂をしたものたちが書いたのに違いないと
言う下りがある。

 もちろん小生などは、その教典の門外漢ではある。けれど
ぼくの問題として考える時、この著名な作家は学者の言うこ
とを鵜呑みにしているとおもった。

 苦しみとよろこびがともにあるわけがないと、断じている
のである。なれどそうではあるまいとおもう。生きている
ことは苦しみであるとは、いつも今ここにあらゆるものに
つつまれて、生かされている御身であることを忘れて、自ら
の思いだけを砦として囲う、そのありようそのものを問われ
ることだ。

 その生きることは苦しみであると、はっきりとわかると
いうことは、よろこびをそこに見いだすことでもある。
 すべてのすべてのものとつらなりあって、いまここに
生かされていることを直感する身でもあるからだ。壮大な
紅葉に出会う時、もちろん海や高き山を仰ぎ見る時、一輪の
可憐な野の花に魅せられる時、良き人に巡り会う時なども
その場である。けれどそのありようは、残像としてすぐさま
自らの体験として囲うことでもあり、その意味では大切な
ことを忘れ去るものとしてはある。
 なれど矛盾しながら、苦しみと対極にありながら、そして
その苦しみ、よろこびを感応することが信心というもの
であった。
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良心。再び

2012-11-24 22:31:37 | 日記
 昨日の良心の文章が気になっている。選挙の話に入ってしまった
ことが、なにか悔やまれてならぬのだ。文章というものはなにやら
おかしなもので、あそこで選挙のことが出たことで良心の大事な
なにかが流れてしまったようにおもっている。

 それがはっきりと解れば、さっさと書いているところなれど、
それがどうも、今日はそんな冴えは来ないみたいである。

 言葉を生きていると毎回のように言うものが、言葉にあやふや
では困る。言葉は力である。生きることの意志を開くものである。
言葉はわたし自身をも開く、されば世界を開くということなれば
用心せねばならない。
 
 生きることに自信がないというものがいる。されどそれは、
多くの場合、人間関係のことを指している。いつでも、知らぬまに
他と比べて自身の具合の良さ、悪さをならべて言い訳するように
してやりすごしている。当の本人がそれを、言い訳とも知らぬ形で
使っている場合も多い。

 なれど、自信がある、ないと分別する前にこのものをわたしと
言い放っている、絶対の自信がすでに備わっていることを忘れて
はならない。そしてだれでもが赤心、すっぴんのまごころ、良心を
秘めている。その赤心にわたしするよと、ひとこと言えばおのずと
決める。動いていくものとしてある。
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