友より来信あり、結局わたしというもの思い込みで出来てい
るということが、はっきりとしたことが大きい。と。
そうだけんど、と往信に、この「思い込み」というやつは、
一つ二つででき上がっているものではなく、細かくひだ状に
なって、幾重にも重ねられてできあがっているふうである。
だから、一つ二つ壊れるくらいが活性していいけれど、
大部壊れると病んだり、自死することにつながる。
その意味ではこの「思い込み」否、「思い入れ」がわたし
なのです。わたしを生きていくということは、つねに
細かいひだの思い込みははがれ落ち、同時に新しい思い入れ
ができており、まさしくわたしというかたまったものなんか
じゃなく、じつにナマナマしきもの、ニーチェじゃない
けれど、生成という言葉がここではぴったしだとおもう。
ともあれ、あなたが言われるようにそういうものとして、
これはあったと俯瞰することができたということが
大きいですよね。
でもそうかといって、悩みや困る、苦しみは無くなる
わけはなく、かえってそれがわたしの現在をみせてくれる
もの、ということがおもしろいですね。
るということが、はっきりとしたことが大きい。と。
そうだけんど、と往信に、この「思い込み」というやつは、
一つ二つででき上がっているものではなく、細かくひだ状に
なって、幾重にも重ねられてできあがっているふうである。
だから、一つ二つ壊れるくらいが活性していいけれど、
大部壊れると病んだり、自死することにつながる。
その意味ではこの「思い込み」否、「思い入れ」がわたし
なのです。わたしを生きていくということは、つねに
細かいひだの思い込みははがれ落ち、同時に新しい思い入れ
ができており、まさしくわたしというかたまったものなんか
じゃなく、じつにナマナマしきもの、ニーチェじゃない
けれど、生成という言葉がここではぴったしだとおもう。
ともあれ、あなたが言われるようにそういうものとして、
これはあったと俯瞰することができたということが
大きいですよね。
でもそうかといって、悩みや困る、苦しみは無くなる
わけはなく、かえってそれがわたしの現在をみせてくれる
もの、ということがおもしろいですね。