世智弁聡

2013-01-31 21:25:28 | 日記
 今日は一日快晴だった。こんな日は部屋に籠ることはできない。薪ストーブの煙突掃除、雪かき、屋根から落ちた雪が窓をだんだんとふさいで来るのだ。大概の家は、雪囲いをする。けれどあれはするのも一仕事だし、すれば冬中お陽様があたらないから暗い。それでもうしなくなって久しい。そのかわり、ある意味しょっちゅう雪かきをしないとだめなんだ。それを済ませてから大根掘りも、お天気がいいから気持ちもよくTシャツ一枚でやっていた。

 先日の勉強会で教わったこと。仏法を聞けなくなっているさまを八難所という。その八つのなかに世智弁聡があると。世智弁聡とは字の如く世知にたけていることをいう。仏法とは結局このわたしをどう生きるかを問うていくことなれば、世知に長けにくくなるのはもとよりであろう。しかし世智弁聡とは結局、システムもしくは組織を大事にする発想だなとおもう。いままた国のこと、国家論議がやかましいが、この国家のもとで、国家という旗印で戦争を、産業をやってきた。原発もまったく同じ発想のなかにあるが、この国家のためにわれわれがあるのではない。まったく逆なのだわれわれが気持ちよく暮らせるためにこそ国家なるものがあり、それは、政治家や行政の仕事ではなく、このわたしが作っていくという覚悟がとても大切だと思う。
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松原泰道老師

2013-01-30 21:32:00 | 日記
 今日は籾すりを。記憶とはまことに妙なもので、どこの小窓が開いたのだろうか。学生最後のとき、いよいよ修行道場へ、場所は京都安泰寺、内山老師のところに随身しようと内心では決めていた。けれど、坐禅ということが理屈ではなんとなく解っているような。このどうしようもないものでもともあれ坐蒲の上に坐れば、一超直入如来地。仏さんになるという。ところがこのホトケさん、坐れば退屈、眠くなるし、頑張れば妄想ばかりこいて、2時間も坐っていると、ボオッとなるばかりでさすがにこんなんじゃいかんだろうよと思っていた。

 そんな折、ある仏教セミナーがありそこに講師の1人として松原泰道先生のお名前が書いてあり、それでこの問題を松原先生に聞いてみたいと思い立ち参加することにした。大勢の前では質問ができず、機会をうかがって1人になられた時にお訪ねした。その時の先生の温顔が籾すりのやかましき音のなかで急に甦ったのだ。先生は歎異抄を是非読みなさいとすすめられたのだ。それがご縁で以後親鸞上人に少しく学ぶことができたんだ。その歎異抄に「念仏のもうさるるも、如来の御はからいなりとおもえば、すこしもみずからのはからいまじはらざるゆえに。」これは正法眼蔵の「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆく」に交応する。ようはこのボンクラはボンクラであることにかわりはないが、ただこれそのものがそこにおかれてあるこの身にボンクラのはさみようがないものとしてあるということ。それはこのものがここにそのままで大いなるものとしてあるということを、自身で示している。ただ若い時は、じっとしていることそのものに耐え難く、暴れていたのだ。内山老師は坐禅は思いの手放しの姿勢と。年を経てどこぞの老師がわしの坐禅もなかなかいい心境になってきたなどというが、なーにあれはただ年の加減で枯れただけの話で、そういう心境がまったく通用しない世界を、仏という。といわれてた。
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冬の勉強会

2013-01-29 21:40:56 | 日記
 昨日今日は冬の勉強会である。毎冬2回行われるが、1回めは講師の都合で11月にもう終わったのでした。今回の方は佐野明弘さん、浄土真宗のお坊さまである。ここでお話を伺うようになってからもうかれこれ10年近くになるだろうか。
京大哲学科出、はじめ臨済宗妙心寺で修行、納まりつかず真宗に帰依という方。顔付も態度、喋り方も当方とは正反対、やさしく丁寧ながら鋭くそこからそこへ流れるように話される。たとえば、今度持って来られた東本願寺で出している同朋新聞(12年10月号)で学者の安富歩さんと対談をしており、そのなかで「自分が自分であることを受け止めたい。その為に自分を一つの立場につくり上げようとする。思想的にあるいは、社会的な地位や信仰によって。自己を固定化すること、それが自己を確立することだと思い込んでしまう。しかしそのことでかえって人間が見失われてゆく。」と、酒飲み、麺喰いのところだけはうまがあう。これからも教わりたい方である。
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水だぁ

2013-01-27 22:05:47 | 日記
 昨日今日と丸二日、水がまたでなくて奮闘したんだ、いやはやくたびれたのだ。結局上のタンクのパイプ口が凍っていたらしく、苦労しました。いままであそこでは凍ったことが無いと踏ん張っている、それがいかん。ともあれ現場を見よ、だ。現場を見て驚いた。断熱材で養生してあったものがいつのまにかとれており、パイプはむきだしにこれじゃあかんよ。やっぱし。
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学ぶということ 2

2013-01-25 21:21:00 | 日記
 ことばというものは、わたしのおもいを他者に伝えるものとしてある。けれど、ことばはわたしのものではなく共有の開かれたものとしてある。それゆえ「わたしは自由である」と言った時、わたしのおもいとすれば、いっさい自由がないものとしてここにおかれてある。そのありようが自由そのものであるとすれば、あなたはあなたの「自由」を囲っているからとうぜん見誤るだろう。ことばは意味を伝えるものである。なれど意味だけでは伝わらない。対面してお互いの顔と顔を突き合わせ、ことばの前後のしぐさなどの表情をくみ取りながら語り合うことができても、わたしの「おもい」をあなたに届けるのは難しい。

 老師のことばをその時は受け止めたつもりでいた。しかし積み重ねられた年月のなかで唐突にそのことばが甦り、新たな意味をそこに見いだすこともある。それは老師のことばは変わらぬものとしてあるが、当の本人が痛みや悩み、弱さを抱え込んできたことが、そのことばにあらたないのちを吹き込むこともある。

 学ぼうとしたいことが、ほんとうはなんなのかよくはわからないでいる。英語や数学などを学びたい人にとって、それらが少しづつ上達したり解るようになるようなことならそんなにもんだいはない。
 そのままいえば、生きることそのものを学びたいのだ。こんなことば大仰にきこえるだろうか。人として生きているということは、誰の上にでもその学びはある。それはもっともっとと得体の知れないところから突き上げるようにうながしているものである。とすれば、わたしという1人の学びに納まることはできない。そんな生きることの学びの赤心片々を学ぶことができるとすれば、それを秘匿したりまたは自慢気に披見するようなものではない。ごく自然に、このわたしのおもいを聞いてほしいと舌足らずなことばで紡いでいくものとしてある。
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