Aさんのこと

2013-03-25 22:02:23 | 日記
 通信を発送している方で、もう何年も音沙汰(返事)がない方は、もう毎度同じようなことを書いているこんなもの読まないだろうと、送らないでいる。そういう方に限って、何で来ないのかと文句をいわれることがある。年に2回だしているから、毎度お返事くださる方、待ってました、とてもよかったと切手とともにくださる方、お世辞でもそういわれると嬉しいもので、また今度はちゃんと書かなくてはなどと励みになっている。何年も返事がなく、急に大吟醸酒を飲んだような味わいで、などとほんもののそれを送って下さる方もおられるから、表面的に解釈するだけではいかないものがある。
 Aさんもそのひとりである。地元の人である。傍目には、彼は塗り職人なれど、芸術家タイプでいつも大きいことをいう。お家も3世代が同居しており、親たちは働き者で3丁からの田んぼをその親たちがほとんどやっており、彼のきれいな奥さんは塗りの仕事をお弟子さんたちと楽しそうにやっている、いわば明るい家。彼はあるところではゴーストライターをやったことがあったり、地震のことが詳しくそのことで本を出したりとかでともあれマルチ、才気あふれる男なのである。
 ところが、もう3年近くになるが、親父さんがある日倒れて半身不随に。それをみたお母様が、気持ちが滅入ってしまい、鬱状態になり自殺してしまったのだ。もともと丈夫でなかった奥さんが心臓病を患い、寝たり起きたりの営みになったとか。こどもたちはこの春で家から出て行き、今病人2人と3人で暮らしていると。彼、田んぼ3丁半(数にすると37枚)をこの2年ひとりでやってきた。ときおり、田んぼでやっている姿を見ると立ち止まって話をしている。その2年前の彼と比べると、体重が20キロ減ったという変わり方である。引き締まっていい顔付なのである。
 その彼が通信読みましたと熱いお便りとお菓子が。それで、電話で話した。いやぁわじゅさん負け惜しみでもなんでもなく、いまこんな人様からみれば大変な状況になったけれど、ぼくとすれば有り難いとほんとにおもえると。これ以上どうすることもできないようなことになってはじめて、おれがここに生かされていると素直におもえるのだもの、これ我ながら不思議です。この困難に手を合わすオレがおることにおれがびっくりしてます。と。
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雪融けだぁ

2013-03-24 21:56:15 | 日記
 気がつけばあれほどあった雪が、とおもうほど黒い土の所が見る間に広がっている。春というのは大地そのもの、つまり地温が上がるんだない。それだもんだからして、娘たちが騒いだかまくらのあとがそこにあったように思ったけれど、まるで蜃気楼の如くただの雪の原っぱになっている。それでお天気のいい間にと思って、屋根に上がって瓦の棟のずれた所をなおしたり、割れたものを交換。ソーラーの給湯器も復帰するようにした。梅の蕾はまだ堅いけれど、日差しはずいぶんあたたかくここにも春がきた。である。
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知性

2013-03-23 20:37:07 | 日記
 アタマの良し悪しというのはある。お袋は、いえばアタマが良い家系なんだろうと思う。お袋は明治生まれなれど、日本で初めて出来た女史医学大学に入った。けれど入学後身体を壊してしまい、それで医者にはならず当時とすれば晩婚で禅坊さんに嫁いだからぼくがいる。兄たちはそのお袋の系統が強いのだろう優秀である。お袋で言えば、一度に聞いた電話番号を何人ぐらいまで言えたのだろうか。ぼくなんぞは、いまだに自分の家の番号ですら時々間違える。ともあれザルアタマであるらしい。長く時をともに過ごした連れ合いが、もうこのへんのざるについては諦めても良さそうなのに、一向に手を緩めることはなく、いまだに間違える度にそこにつっかかってくる。まぁそれも今となってはそれも愛嬌みたいなものである。
 それでも人は何か人に語ろうとする時、知らぬまに自慢話になっているか、またはわたしはこんなに懸命であることかをアピールしようとする。その意味ではぼくだけではなく、はなはだ健気なのである。けれど、アタマのいいと言えばこのパソコンには叶わないのではないか。こういう道具は、いままで人類が営々と築き上げてきた知恵の固まりとしてある。だからこそ、これが辞書から買い物、計算、地図、手紙、電話などとどれも瞬時にこなすから、ちょっとそこらへんのアタマいい自慢家もかなうものではない。そうやってみれば、人がすることは、自慢や懸命さをアピールすることよりも、コンピューターではぜったいない能力。つまり迷うこと、困ること、悩むこと、このありようは他の生物にもない人の人たる基本線なのである。もちろんその迷い、困る、悩むのいずれも辛いことではある。辛いがゆえにいつのまにか、迷う前に、悩む前にそれを回避することばかりが先行していて、けっきょくいまここのわたしからもスルーしてしまうことになる。
 ひとの知性というのは、ちゃんと迷うこと、困ること、悩むことであるとしみじみおもう。
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育てる

2013-03-22 21:08:15 | 日記
 新日本風土記という番組を見ていた。大阪法善寺界隈をやっていた。ある料理屋で働く青年を映していた。10年ほど修業をやってきたけれど、ここの料理に触れたらいままでのやってきたことは、なんだったのかと思いなおしてこの店に一から入りなおしたとのこと、ここに入って3年目といっていた。夕方、その彼がのれんの手前でお客の来るのをじっと立ったまま待っている所があった。親方がいう。技術というのは切ったはったやから、長くやっていれば誰でもできるようになる。修業というのは、その技術のことではなく、お客様に本気で持て成す思いを育てることやと。掃除することひとつ、その一つひとつの態度が自らの思いで、思いを育てていくことだと。
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150人

2013-03-21 20:57:28 | 日記
 人類学のあるデーターが示すには、人が一生の間に出会う人は平均すると、3千人から5千人らしい。それは言葉を交わすという程度のことから、数として勘定するらしい。この数字を見て少ないと思うか、多いと思うかでその人生観もなにやらずいぶん違う気がする。そしてそのなかでも直接かかわり合う関係は、百人を超えないそうである。この数字は、類人猿学の研究と符合するものがある。それは脳の大きさからその種の集団サイズが決められるらしい。テナガサル15匹。ゴリラ35匹。チンパンジー65匹。人間150匹。人間の集団サイズが150人とはこれも少ないと思ったけれど、いやこれでいっぱいなんだろうな。まして直接関わり合う日常の人数は、ほんと数十人なんだろうとこれも妙に納得した。
 そうしてみると、いままさに出会っている人たちはこちらのスキキライを超えた貴重なまことに貴重な人たちであるかがよく解る。そのお一人おひとりとのかかわりあいがわたしの人生そのものを決定づけていることを、おもうとまさに合掌の世界。仏教の基本メッセージは、無我。それの具体的なありようは自未得度先度他(自らがいまだわたるまえに他をさきにわたす)といわれるゆえんも、はいとうなずかざるを得ないように思います。
 こういう言い方をすると、もうそんなん無理無理と反応される方も多いと思います。ぼくなどもまことに自分勝手な輩ですから、そうなのですがこの自分というありようもじつは他者としてあるのです。ですから妙なはなしこの自分自身に向けて、合掌するが如く他に対しても開く、合掌という態度をみずからのなかに作っておくことが出来ると、そんないわば善人を想像しなくて、ふつうにできることとおもう。
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