新聞の投稿欄になんで自殺することはだめなのかとありました。それにたいしての回答者の応えも困っていました。それもそのはずです。わたしたちは生きていることの意味や理由を知らないのです。だからとうぜん自死することがどうしてだめなのか、明確な答えはないのです。その18歳の投稿者もいじめにあっていて、何度死のうとおもったことかと。親や兄弟が悲しむからだめというのなら、身寄りのないものならいいのかといっていましたがまことにそうです。苦しみの最中というのは前後が不覚になり、するっと死に誘惑されるようにして逝ってしまうようです。さあ死のうと思ってからでは死ねないようです。私たちのだれもがここに生きたいとおもって生まれてきたわけではありません。それはいうように意味や理由などを超えた世界です。こうやってことばをつづること、手が動くこと、おナラがぷっとでること、どれひとつさも自分でやっているようですが、わたしというものを超えたなにかいわばいのちそのものがそうさせています。そのいのちのことを、古の人たちはほとけと呼んできました。自我だけしか見えない暮らしの中ではそのほとけを拝むことは出来ません。なれど、これが自分がつぶれる、折れる、呼び覚まされることがあるとき、はっきりとほとけそのものを生きているものがここにいると、うなずくのです。
自死をしようとするものにそのありようを指し示すことは容易なことではないけれど、死のうとまで追い込まれている自分と、ほとけとしてのじぶんとはとても近い所にあるということだけは、知ってほしいなぁとおもいます。
自死をしようとするものにそのありようを指し示すことは容易なことではないけれど、死のうとまで追い込まれている自分と、ほとけとしてのじぶんとはとても近い所にあるということだけは、知ってほしいなぁとおもいます。