金融工学

2013-03-15 20:36:00 | 日記
 もうずいぶん前から、経済のことが気になっております。わたしたちの意識のもちようというのは、商品つまりパソコンとか携帯とかですがこういうもので知らぬまに意識は変わっていると思うのです。学生のころなどはお金儲けのことや経済活動などときいただけで、思想や文学的なこととは真反対、そういう自分にまつわることよりも物質的なことに重きを置いているのだとなんとなく、了解していたのです。しかしながら会社経営をされる方の中で飛び抜けて、社員のことや顧客のことだけでなく、社会のこと、世界のことにいつもアンテナを張っており、それが自分にとって都合の良きことだけでなく、悪いことも積極的にとりいれて、この会社、この国、この世界がどうすればもっとよくなるのか、すべての人が幸せに暮らして行けるのかと、真剣に考えている方がおられる。そのありようはどういえばいいのか。簡単にいえば自分がこの世界にたいして責任をかんじている。それは同時にわたしはちゃんとする、やります。と、だれかのせいにしたり、言い訳、弁解をしないその姿勢に感応同行したのです。
 金融工学の話をするつもりが違う所にずれています。脱線ついでにいいますとぼくの考えている信仰者というのは、この社会この世界に対して責任を取ることが出来るものをさすとおもうのです。それは自らのことや教団もしくは『禅」『仏教』『宗教」などのことだけを問題とするならば、それははなはだ遠いおはなしというか、そんなことは学者たちにまかせていたらいいのです。ところでじゃこのぼくがこの世界にたいしてどんな責任がとれるのでしょうか。それはじつはなんにもできない。まことになんにもできないのです。けれどおれはしますよ。おれは責任をとりますと開くことからはじまる。とおもっているのです。わたしを生きることは世界そのものを生きることだからです。このありようはもちろんぼくのアイデアなどではなく、先人たちがふつうにやってこられたことであり、いま一部の起業家たちがそういう意識の中にいると思っています。
 金融工学のことを言おうとおもったのは、世界の実際のもの、商品が動いている貿易の全収支額(数字は忘れた)の50倍ほどのお金が動いていてこれが世界の動向を決めているらしい。こういう見えないありかた、わたしたち庶民にはまったく関係のないことのようにみえるけれど、これは50年前とは違う意識のありようとして見逃せないことなのではないかと危惧するのです。なんでわざわざこんなことをもちだすのか。それは経済のことであれ、政治のことであれ、金融工学のことであれ、なんであれじっさいかかわっているのはこの生身のわたしたちじしんのことであれば、『経済モンダイ」『政治モンダイ』などとかたづけてしまうと、とんでもないことになるからである。ちょうどあの原発のことがエネルギーのモンダイや政治のモンダイなどとして済ましてしまうのと似ています。原発のモンダイはあのフクシマが示しているように、わたしたちの暮らし、いのちそのものに直結しています。それが今なんとなく経済のモンダイとして片付けられそうです。この動きとある意味同じだなと思うのです。
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