無常といはれても私たちにはもうニヒリズム、虚無とほとんど区別がつきがたくなっているのではないか。と思う。虚無は生きていることに意味を見いだせない。何をしていてもなにやらつまらない。身体の底から楽しめてない。いつも寒い風がふいているようだ。であろうか。無常は一言で申せばはかなしの感情である。すべては移ろいいくものとしてある。年齢もあるころまではごくゆっくりと進むが、加齢がませば早くなり、無常を感じざるをえない。それは同時に産まれるということ、赤子が、あらゆるいのちあるものが生まれることも無常である。
「よのすえには、まことある道心者、おほかたなし。しかあれども、しばらく心を無常にかけて、よのはかなく、ひとのいのちのあやふきことを、わすれざるべし。われは、よのはかなきことを、おもふと、しらざるべし。あひかまへて、法をおもくして、わが身、わがいのちをかろくすべし。法のためには、身もいのちも、をしまざるべし。」(正法眼蔵、道心)
ここで使われている無常はわれの感情ではない。根源的事実としての無常である。法とは絶対的なありかたをいう。わたしたちは日常われの思いでだけ暮らしている。なれどわれというのは思い以前にすでにここにある。その事実いまここにこれのことをわたしと呼んでいるそこにいつも正当して生きよとせまる。
「よのすえには、まことある道心者、おほかたなし。しかあれども、しばらく心を無常にかけて、よのはかなく、ひとのいのちのあやふきことを、わすれざるべし。われは、よのはかなきことを、おもふと、しらざるべし。あひかまへて、法をおもくして、わが身、わがいのちをかろくすべし。法のためには、身もいのちも、をしまざるべし。」(正法眼蔵、道心)
ここで使われている無常はわれの感情ではない。根源的事実としての無常である。法とは絶対的なありかたをいう。わたしたちは日常われの思いでだけ暮らしている。なれどわれというのは思い以前にすでにここにある。その事実いまここにこれのことをわたしと呼んでいるそこにいつも正当して生きよとせまる。