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自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

ネットで学ぶ「終戦~新憲法制定まで」:旧憲法下で内閣がしたことの意味

2019-12-08 21:41:31 | 憲法を考える

 安倍首相の愚かな政治権力の私物化は、戦後の自民党政治の伝統であり、馬鹿げた利害関係のみで成立している政治は、もう終焉を願いたいものだ。

 旧憲法下の終戦時の鈴木貫太郎内閣(1945年4月7日から1945年8月17日)の置かれた状況は、『5月8日にドイツ軍が無条件降伏し、日本本土空襲も日増しに激しくなり、産業の現状から継戦は困難であったが、徹底抗戦を求める軍部の圧力を受けて「敢闘精神を補えば本土決戦は可能」とした。しかし、6月23日には沖縄における組織的戦闘が終結し、日本の敗色は濃厚となっていった。6月22日の御前会議で「ソ連を仲介とした米英との講和交渉」を決定した』が、すでに2月に実施されていた米英ソの首脳によるヤルタ会談の密約で対日参戦を決めていたソ連はこれを拒絶した。

 『7月26日にアメリカ合衆国・中国・イギリスの首脳名で発表された降伏勧告ポツダム宣言に対して、鈴木首相は同月28日に「政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、斷固戰争完遂に邁進する。」とコメントした。しかし8月6日に広島、8月9日には長崎に原子爆弾が投下されて壊滅的な被害を受け、同じ9日にはソ連軍が満州国に侵攻した(ソ連対日参戦)。この8月9日深更から開かれた最高戦争指導会議および閣議の御前会議は、ポツダム宣言を受諾して降伏するか、あくまでも本土決戦を期して戦争を遂行するかで議論は紛糾した。鈴木首相は昭和天皇の聖断を仰ぎ、「国体護持」を条件として、ポツダム宣言受諾に意見統一し、国民に対しては8月15日正午から、ラジオ放送を通じて、天皇自ら終戦の詔書を朗読する形で、ポツダム宣言の受諾が伝えられた(玉音放送)。』なお、『』の部分は鈴木貫太郎内閣から抜粋引用した。

 敗戦の責任を取り辞職した鈴木貫太郎の後を継いで、『ポツダム宣言受諾(降伏予告)の3日後にあたる1945年(昭和20年)8月17日、憲政史上最初で最後の皇族である東久邇宮稔彦王が内閣総理大臣に任命された。日本の降伏予告に納得しない陸軍の武装を解き、ポツダム宣言に基づく終戦にともなう手続を円滑に進めるためには、皇族であり陸軍大将でもあった東久邇宮がふさわしいと考えられたためであり、昭和天皇もこれを了承した。東久邇宮は最初、総理拝命を固辞しようと考えていたが、敗戦にやつれた天皇に懇願されて意思を変えたという。連合国による占領統治の開始が滞りなく開始されるように、受け入れ準備に万全を期し、玉音放送が行われて18日後の9月2日には東京湾沖のミズーリ号上で日本軍ならびに日本国政府全権代表により日本の降伏文書に調印がされ(日本の降伏)、正式に太平洋戦争(大東亜戦争)は終結し、軍の解体と復員、行政機構の平時化、占領軍受け入れ等を実施した。』

 また、『平和運動の第一人者だった賀川豊彦と戦後の秩序回復と生き方について相談し、「早急に国民に呼び掛けて、キリスト教徒もそうでない者も一つになって、過去における生き方、考え方を反省し、懺悔をする運動を起こしたらどうでしょうか」と提案を受けて、「一億総懺悔」』を実施した。これは単なる為政者側の責任逃れではない。戦時中は、反戦の言動は「非国民」と世間から爪弾きされた。今日でも平和に恵まれながら、他者を尊重しないで自己の利益のみ考えている人は多い。親から、神から授かった「命」を大切にしないで、日本人はどっちを向いて歩いているのだろう。今も「一億総懺悔」が必要と思うのは、私だけであろうか?

 一方、『内務省は、モーニングコートを着用し直立する「現人神」の昭和天皇が、略装の軍服を着用し腰に両手を当ててやや体を傾ける姿勢のダグラス・マッカーサーと並び立っている会見写真の公表を阻止するために、山崎巌内務大臣の権限で記事掲載制限及び差止め措置(発禁処分)を実施し、東久邇宮も同意したが、GHQは日本政府に対して会見写真の公表を迫り、これに従わない場合は山崎を逮捕して軍事裁判にかけ、内閣には総辞職を命じるとの通告を行った。これを受けて、山崎内相は発禁処分を撤回した。GHQは10月4日に「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」(人権指令)を指令し、治安維持法などの国体及び日本政府に対する自由な討議を阻害する法律の撤廃、特別高等警察の廃止、内務大臣以下、警保局長、警視総監、道府県警察部長、特高課長などの一斉罷免を求めた。 (中略) 東久邇宮と内閣の大番頭緒方竹虎は対応を協議し、GHQの指令の不合理に対する抗議の意思を明らかにするために辞職するとの結論に至り、翌日内閣総辞職した。』
 なお、東久邇宮は『1960年(昭和35年)、六十年安保闘争をめぐる騒動で、石橋湛山・片山哲とともに三人の首相経験者の連名で時の首相岸信介に退陣を勧告』していることも、戦後の自民党政治とは一線を画するものであった。『』の部分は「東久邇宮稔彦王」より引用。

 戦後の新憲法は、大正末から昭和初期にかけて対英米協調を旨とする幣原外交を展開していた幣原喜重郎が首相となり制定したもので、日本国憲法をつくった男 宰相 幣原喜重郎 (朝日文庫) という本も出版されている。ことに幣原喜重郎元首相が語った 日本国憲法 - 戦争放棄条項等の生まれた事情について幣原喜重郎の「憲法9条」掛け軸発見 軍備よりソフトパワーに認められる憲法9条の「戦争放棄」は世界に誇れる偉大な業績だ。

 『「日本国憲法 - 戦争放棄条項等の生まれた事情について」は、幣原が亡くなる10日ほど前の、1951年・昭和26年の2月下旬に行われ、幣原は、『口外無用』として衆議院議員であり、幣原の秘書官であった平野三郎に語ったとされる。平野は、「昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみてあえて公にすることにした」とし、『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について』と題されたその文書は、1964年・昭和39年の2月に憲法調査会事務局によって印刷に付され調査会の参考資料として正式に採択された。』
 参考:衆議院憲法審査会
     高柳賢三

 幣原は憲法9条の戦争放棄について、次のように語っている。『次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰して終うことになるだろう。そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。』

 (他日独立した場合、敵が口実をつけて侵略したら)との質問に対しては、
 『その場合でもこの精神を貫くべきだと僕は信じている。そうでなければ今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。然も次の戦争は今までとは訳が違う。僕は第九条を堅持することが日本の安全のためにも必要だと思う。』

 (憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果ということになっています)に対しては、
 『そのことは此処だけの話にして置いて貰わねばならないが、〈中略〉憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出して貰うように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。〈中略〉幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和二十一年の一月二十四日である。その日、僕は元帥と二人切りで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった訳だ。世界の共通の敵は戦争それ自体である。』『』の内容は「幣原喜重郎元首相が語った 日本国憲法 - 戦争放棄条項等の生まれた事情について」から引用した。現在の改憲論者に熟読をしてもらいたいものだ。

 本日は真珠湾攻撃(太平洋戦争開戦)から78年目を迎えた。「おしん」(動画)は1983年(昭和58年)4月4日から1984年(昭和59年)3月31日まで放送されていたNHK連続テレビ小説で、現在も再放送中だが、戦争がどんなに庶民の生活を破綻させるかを訴えた反戦ドラマだと思う。「戦争は将来を含めて終わらせる。軍備は廃棄する。」という意味を含めて、今回の戦争も敗戦ではなく、終戦宣言と言うべきだ!そして、「自衛隊」をアメリカの戦争に参加させるのではなく、武器を捨て「世界災害救助隊」にすることこそ、憲法9条の「戦争放棄」の趣旨に沿ったものとなろう。


初稿 2019.12.8


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