自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

“いのち”を大切にした犬公方「綱吉」と絵師「若冲」

2018-04-28 20:30:04 | 自然と人為

 国民のために公正と清貧が求められる政治と行政のはずだが、自分のために公的権限を行使して些細な事と恥とも思わない総理がいて、倫理観に欠けた副総理や大臣等、類は類を呼ぶ。しかも、これを諫めないで守ろうとする多くの政治家や官僚もいる。政治の腐敗の中心の同心円にいる者たちは、何時の時代もそれを異常だとは思わない。
 一方、封建社会の江戸時代でさえ、関ケ原の戦いから80年、1680年に5代将軍となった綱吉は、武断政治から法整備などを基本に据えた文治政治に転換した。犬公方綱吉と悪名高い「生類憐れみの令」は野犬対策もあったが、実は子捨て、子返し、姥捨て、病人捨てなどから人の命を守ろうとするものだった。荒れた戦国時代からの社会を、文治政治で元禄文化に花咲かせた綱吉の治世の再評価が、政治への信頼が地に落ちた現代においてなされているとは、皮肉なものだ。
 参考: BS歴史館 : 徳川綱吉 / 犬公方の真実(動画) 儒学・儒教
      忠臣蔵における徳川綱吉の裁断は正しかった(NHK英雄たちの選択)(感想)
      徳川綱吉 ~犬公方の知られざる思い~|ザ・プロファイラー(感想)
       綱吉、晩年の記 「思無邪 」 (政を司る人間はどう考えるべきか、
                         考えによこしまなもの邪念が入ってはいけない)
      徳川綱吉は暴君だったのか ~犬公方の素顔~(感想)
       ドイツ人医師ゲッペルは綱吉のことを「法律を厳格に守り、国民に対し憐み深い
       優れた君主である。日本は、生活習慣、芸術、道徳において、ほかのあらゆる国
       の人を凌駕している。」


 元禄文化は上方(大阪、京都)の町人が中心となって盛り上がったが、その雰囲気が残る京都・錦小路を代表する青物問屋(流通業)「枡屋」の跡継青年は、23歳のとき父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名した。しかし、商売には力が入らず、若くして禅に入り俗世を離れ、植物や鶏を描くことに熱中し、ついには丹波篠山で2年間も自然の中に生きる多様な動植物のいのちの営みを描く生活をした後に家業を弟に譲り、相国寺の禅僧・大典顕常から後に与えられたと推定される居士号(こじごう/出家はしていないが知識や実践で僧侶に準じるとされる人に与えられる名)若冲』という絵師になった。

 若冲の最初に描いた動植綵絵が、「芍薬群蝶図(1757年?)だと言う。若冲の絵は緻密で、新鮮で、いつまでも生きているような華やかさもある。現代の繊細なデザイン画を彷彿させる一方で、動植物の絵には日本にないものまでも同居させ、視野が広くてユーモアもある。若冲の絵は、多くのものを学ぶ楽しみを与えてくれる。参考になる資料を紹介させていただいたので、隅々まで目を通していただきたい。
 参考:「若冲の謎」 連載第1回13回 「ふろむ京都山麓」記事一覧
     「若冲という名前」(1)(2) 若冲 略年譜
     「伊藤若冲の生涯」 (1)(2)(3)(4)(5)
     動植綵絵 第1期(1757-1760)第2期(1761-1765)第3期(1765-1766)

 若冲の動植綵絵(どうしょくさいえ)には、「あらゆる生き物が登場する。
ニワトリ、スズメから、ハサミムシ、フグ、そして虫に食べられた葉っぱまで…。なぜ、そこまで生き物を描き続けたのか? それはいのちを巡るミステリー。実は、「動植綵絵」にとりかかる前、若冲には“空白の二年”があった。さらに、若冲の時代に飢きんが起こり大勢の人が亡くなった。絵に隠されていた人々に語りかける意外なメッセージとは?」 「若冲 いのちのミステリー」より引用)

 「出家とは自分のやりたい道をひたすら進むために、他のものをみんな切り捨てて、その道だけに進むような人生を選ぶこと。
 釈迦と若冲はそういう意味で似ている。釈迦は王子として生まれ出家が許される状況で、仏教と言う巨大な文化をつくった。若冲も出家が許されて、亡くなるまで絵を描き続けてよいという環境で傑作を残した。釈迦と若冲のいずれも恵まれた環境の中で、見事に出家の人生を実現した人だと思う。」「若冲 いのちのミステリー」花園大学 仏教学者 佐々木閑

 釈迦涅槃図は釈迦の入滅の様子を、弟子や様々な鳥獣と共に描かれているのが一般だが、若冲の「果蔬涅槃図」は、釈迦の代わりに二股大根、弟子や鳥獣の代わりに野菜と果樹が描かれている。
 「二股大根は江戸時代のある時期までは、お正月の鏡餅の上にミカンの代わりに置かれていた。神棚に二股大根を置いて拝む絵もある。石川県、奥能登では今でも二股大根を田んぼの神にささげ、五穀豊穣を祈っている。」 「若冲 いのちのミステリー」より引用)
東南アジア原産の果物「ランブータン」も描かれている
  「果蔬涅槃図」 (参考:東光寺「釈迦涅槃図」 73種類の動物・鳥・昆虫
                 釈迦涅槃図とは?釈迦涅槃図と動物
奥能登のあえのこと アエノコトの変容(Adobe PDF)

 釈迦涅槃図には「虎や象、水牛といった日本には棲息しない動物や、空想の動物」も描かれているが、NHK番組「若冲 いのちのミステリー」を観て、”「鳥獣花木図屏風」という作品は、ゴットフリートの『史的年代記』(2)の創世記のエデンの園の銅版画の挿絵から着想を得たものという話が興味深かった。”(写真家 田尻健二)というコメントもある。
 若冲の桝目描きには、「白象群獣図」(個人蔵)と屏風の「鳥獣花木図屏風」と「樹花鳥獣図屏風」の2つ、計3図ある。 前者はプライス・コレクションで後者は静岡県美術館蔵である。NHK番組「若冲 いのちのミステリー」では前者を紹介しており、色彩も鮮明だ。『鳥獣花木図屏風』については、『鳥獣花木図屏風』真贋論争とこれに関連したコメントがあるが、解説は「鳥獣花木図屏風右隻」しか見つからない。これによると、「右隻は、白象を中心にして、向かって右手にはイノシシ、ヤマアラシ、唐獅子、獏、虎などが、左手にはヒョウ、水牛、ラクダ、オランウータンなど、併せて29種類の動物が描かれている。その中には、若冲が実際に見たことのない動物をあっただろう。絵には、正体のはっきりしない動物も描かれている。」と説明されている。同じ題材なので静岡県立美術館の「樹花鳥獣図屏風」の解説も引用させていただくと、屏風の『右隻は「獣尽くし」左隻は「鳥尽くし」で、それぞれ実在の身近なものから、外国産、また空想上の生き物まで、様々な鳥獣が水辺に群れ集う風景。「尽くし」の趣向や白象・鳳凰が各隻の主役であるところから、吉祥性の強い大変おめでたい屏風』と説明されている。
「鳥獣花木図屏風右隻」
「創世記のエデンの園」
 参考: ゴットフリート『史的年代記』の流伝と影響 -鎖国時代の歴史観を考える-
                               京都大学教授 松田 清氏
      江戸時代の 日本とオランダ 日蘭交流400年記念シンポジウム報告集
      「生誕300年記念 若冲展」


 若冲が最初に描いた動植綵絵は「芍薬群蝶図」(41歳?)とされているが、45~49歳の頃、動植綵絵 第2期 (1761-1765)の作品に、若冲の自画像を池辺の動物に模して描いた「池辺群虫図」がある。
若冲はどこにいる?
  「池辺群虫図

 「伊藤若冲は85年の生涯、3ヵ寺に深く関わった。まず伊藤家の菩提寺である宝蔵寺。錦市場から徒歩数分の位置にある浄土宗西山派、裏寺通六角下ルの同寺境内には、若冲の父母と弟たちの墓がある。しかし若冲の墓は宝蔵寺にはない。だがおそらく四十歳で隠居するまでは、彼もこの寺の信徒であったろうと思う。」 (若冲の謎 第10回前編引用)

 「つぎに親密になったのが、御所の北にある臨済宗の相国寺だ。三十歳代なかば、売茶翁に出会い、翁の仲立ちで相国寺の大典和尚を知ったと、わたしは考えている。
 本山相国寺には「動植綵絵」「釈迦三尊像」三十三幅、金閣寺で有名な鹿苑寺大書院には水墨障壁画五十面を寄進している。若冲と大典、ふたりの関係は非常に深いものがあった。なお鹿苑寺は相国寺の末寺である。
 しかし彼の最高傑作「動植綵絵」三十幅を相国寺に寄進した後、若冲は五十歳代なかばのころ突然、相国寺と袂をわかち、絶縁してしまう。相国寺墓所には、若冲の墓もある。ただ生前に建てた寿蔵であり、彼の亡き骸は埋められてはいない。」 (若冲の謎 第10回前編引用)

 「そして最後の第三寺は、伏見深草の黄檗の寺、百丈山「石峰寺」である。還暦を迎える前、五十八歳の若冲は黄檗山・萬福寺に帰依する。そして萬福寺末寺である石峰寺に、亡くなる八十五歳まで四半世紀を超える歳月を晩年の力すべてを注ぎ込んだ。通称「五百羅漢」の石造物群、観音堂天井画など、若冲が完成を目指したのは、現代のことばであらわせば、釈尊一代記パノラマ「佛伝テーマパーク」であった。」 (若冲の謎 第10回前編引用)

「<売茶翁再び>
 売茶翁は京の市井で売茶を生業としたが、宗教者また文人として最高の世評人望を得、たくさんのひとたちに大きな影響を与えた。ちなみに彼の売茶とは、茶道具を肩に担いでの移動式喫茶店、またささやかな茶店を構えて煎茶を点てる小商いであった。しかし佛教の僧侶が物品を売った代金を生活の糧にすることは、戒律で禁じられていた。だが翁はかまわずに売りつづける。彼は佛法についてこう語っている。「こころに欲心なければ、身は酒屋・魚屋、はたまた遊郭・芝居にあろうが、そこがそのひとの寺院である。自分はそのように、寺院というものを考えている。」  (若冲の謎 第10回前編引用)
若冲が描いた数少ない人物画
 売茶翁像 (1)(2)

「動稙綵絵」と「釈迦三尊像」相国寺 若冲
承天閣美術館 名宝紹介
若冲(51歳)は、相国寺に「動植綵絵(サイエ)」30幅(のち宮内庁に献上)と『釈迦三尊図』3幅を寄進し、鹿苑寺大書院の障壁画を手掛けた。

 若冲の紹介に当たっては、ブログを読みやすくするため(若冲の謎 第10回前編引用)を含めてWebに公開されている多くの資料を引用させていただいている。是非、その資料を読んでいただきたい。


初稿 2018.4.28

人類は進歩したのか、進歩できるのか?

2018-04-12 20:08:56 | 自然と人為

 人類の誕生はチンパンジーと別れた700万年前という。その人類は科学技術を著しく発達させたが、人間として集団として進歩してきたのだろうか?何を進歩と考えるかは人それぞれだと言ってしまえば、論議はそこまでだが、それなら何を教えるために世界中に教育機関があるのか?数学や科学を教えるため?政治や経済を教えるため?
 しかし、みんな研究者や政治家や経営者になるために生きている訳ではないし、世界中で信頼され尊敬される政治家が数多く育っている様子もない。学校教育の日常にいると、教育の目標は人類の進歩のためにあるとは普通は思わない。人類は1万数千年前から農業を始めたが、それが文明を生むとともに貧富の格差を生んだとは普通は思わないように、日常の思考回路は身近で狭いことに関心が向けられる。
 歴史的にはアンシャン・レジーム(旧体制)の特権階級であった領主への反発等のフランス革命により、領主、王権政治から国民国家を誕生させたが、その一方で人種差別や女性差別等の身近な差別意識は未だ無くなっていない。

 憲法と議会政治が実現している現在の日本の国会において、国会の証人喚問で国家公務員の官僚が『刑事訴追の恐れがあるため』を繰り返している。「刑事訴追」とは国が制定した法律を破って処罰されることだが、国民が注視している国会で検察の処罰の対象になるからと堂々と証言を拒否できることが不思議である。「刑事免責」導入で真相解明の可能性はあるが、政権与党が絶対多数を占めていれば政権側がこれも拒否するだろう。議会政治において政権与党が絶対多数を占めると独裁政治への道を歩み、権力は腐敗する。首相の犯罪が疑われる事件において、政権が絶対多数を占めれば日本の議会政治もポーランドにおける独裁政治への危険な道を歩み、厚かましい首相が居座り行政組織は破綻する。それなのに若年層の政治への無関心、戦争への道への警戒感のなさ、就職状況の良さ等の居心地の良さで、内閣支持率(2)は顕著には下がらない。
 
 また女性差別の問題でも、土俵上で挨拶していて倒れた舞鶴市長の救命処置をしようと土俵上に駆け上り人工呼吸をしていた看護婦に対して、「土俵の女人禁制」の伝統を守ろうと「女性は土俵から降りてください」と場内アナウンスされたことが物議を醸したが、宝塚市長は女性のために土俵の下で挨拶をさせられたという。また、地方巡業で小学生の男女のちびっ子相撲が数年行われて来たが、同じ頃、女の子を土俵から排除するように相撲協会から申し出があったという。伝統を言うなら横綱相撲に対する白鳳こそ問題にすべきであり、相撲道にこだわる貴乃花が相撲協会から降格冷遇されていることの方がおかしい。これも組織(集団)の外から見ればおかしなことが、組織内では常識とされる例として記憶しておきたい。 (参考: 貴乃花と白鵬~相撲道か団結力か?

 一方、日本の政府は国を守ると言う名目で、国民生活の保護より他国との戦争に備える軍備の増強を優先させている。国を守るには若い世代が働きやすくなるように、保育所や幼稚園の収容能力を大きくして待機児童ゼロにすることがまず必須である。老人の一人暮らしを支援する介護施設の充実も大切であろう。また、経済では人や自然を大切にするより、コストダウンで他国や他社との競争力向上を優先している。競争や規模拡大によるコストダウンは人々の生き方の一つの選択でしかないが、それが経済戦争で生き抜く常識のように振舞う政治家や経済人がある一方で、その様な政治家や経営者を拒否する国民も育っていない。むしろ、それを拒否することは常識のない人間と思われるような雰囲気の中で、我々は暮らしているのではなかろうか?

 しかし、常識とは何だろうか?農業より工業が、小規模より大規模が優れていると思うのは、人類の長い狩猟採集の時代を劣った文化だとするほんの瞬間の今に生きる我々の錯覚ではないか?狩猟採集民もその時代なりの楽しみがあったはずだし、現代の様な自殺者がいただろうか?自然との関係において、現在でも過疎の島に千本桜を島民が協力して植樹して、島民だけでなく多くの人を喜ばせている。荒れる里山や村を10人の草刈り隊が管理していたが、牛を放牧することで子供も喜ぶ牧場ができた例もある。里山が牛や馬、家畜の放牧できれいになった例はたくさんある。何を大切にするかで風景が変わってくる。
 参考: 肉牛生産の原点を若い人に伝えたい。
     「自然と地域につながる肉牛生産」について論じる
     里山管理が日本の肉牛生産の原点になる~特殊と普遍。

 人類は自然の一員、社会の一員であり、地球で生きる生物の一員である。自然を支配することも、他者を支配することも人類の目標ではないはずだ。しかし、競争が個人の能力を向上させるという社会的錯覚が、自然や他者を支配しようとする個人の態度を育ててはいないか?厳しい環境の中で、小さな集団で他の集団・他の動物と戦いながら生き延びてきた人類の本能が、未だ残っているとしても、それは人類も動物に過ぎないという言い訳に聞こえる。しかし、人類が地球の生物を滅亡させるかもしれない程の力を持っている現在では、人類は地球の未来に責任を持っている。未来に責任を持つことが人類の進歩であり、自然と他者を尊重することで未来への責任を実現し、自然と他者と地球を守り、戦争や紛争のない平和な世界を協力してつくることができると、私は確信している。

 人が人を殺すことは殺人罪で重い罪になるが、国が他国を攻撃し、他国の多くの人を殺し、多くの難民を出すことの罪は、何故問われないのか? 国を愛することは地球や他国も愛することだ。戦争を始めたら、我々は出兵を拒否できない。戦争と自分とは関係ないと思われる方には、ポーランドにおける独裁政治への危ない道を「愛国心溢れる国民」が支持していることや、辺見庸の歴史は相似的に反復する」(動画) という言葉に耳を傾けていただきたい。
 参考: こころの時代 辺見庸「父を問うーいまと未来江を知るために」 番組解説 (感想)
      辺見庸のブログ 
      自動起床装置 世紀末の風景空白への旅
      失われた言葉をさがして ある死刑囚との対話
      NHK【ETV特集】「失われた言葉をさがして 辺見庸 ある死刑囚との対話」解説

      動画: 1234567810

 さらに、「1.反ユダヤ主義」「2.帝国主義」「3.全体主義」の全3巻からなるハンナ・アーレントの「全体主義の起源」を紹介したい。私の解説よりも、関連した資料を私の勉強のために集めておいた。
 100分de名著「ハンナ・アーレント 全体主義の起源」
  第1回 「異分子排除のメカニズム」
  第2回 「帝国主義が生んだ『人種思想』」
  第3回 「『世界観』が大衆を動員する」
  第4回 「悪は“陳腐”である」
  ハンナ・アーレント「全体主義の起源」①
 参考: シオニストとは?(2) ドイツの歴史 ウェストファリア条約
      フランス革命 ナポレオン戦争(1796-1815) 1815年 ドイツ連邦 普仏戦争
      1871年 ドイツ帝国  ドレフュス事件 パナマ運河疑獄
      ナショナリズム/国民主義 ニュールンベルク法 水晶の夜 ホロコースト


 アメリカの人種差別撤廃を目指していたケネディ大統領がテキサス、ダラスで暗殺された事件は忘れることが出来ないが、あの事件の深層は狙撃犯が狙撃されたことで藪の中だ。また、ケネディの後を継いだジョンソン大統領の南ベトナム支援と北爆に正義はあったのか? ナチス、ドイツのホロコーストとともに、北爆を許した米国民の責任のことも忘れてはなるまい。そして、そのアメリカに無批判に従属している日本の政府のことも。
 参考: カラーでよみがえるアメリカ 1960年代
      【映像の世紀】第9集 ベトナムの衝撃 アメリカ社会が揺らぎ始めた


 人間が多様な価値観で生きることは許されるべきだが、戦争はそれを許さない。いかなる理由があろうとも、人類の最大の悪は殺人であり、戦争であり、戦争を許す国民だ。戦争は地震のように突然起こるものではない。ポーランドの憲法さえ変えようとする危険な独裁への道を「愛国心溢れる国民」が認めている例に目を覚まさなくてはいけない。ポーランドでは政府がメディアや司法を支配して、多くの人にチャンスを与えるとうそぶいているが、スタッフを政府に従う人材に入れ替えたいし、政府の意向に従った判決も求めていることは明らかであろう。日本も官僚が首相の思惑通りに動いているし、メディアの政府批判もおとなしい。 参考: マスコミの崩壊に絶望する心ある官僚たち 2018年4月13日

 日本では総辞職が求められて当然のような、モラルの低い総理や副総理を支配者とする政権が絶対多数を握ることで、優秀と思われていた官僚が総理の意向を忖度して行政の道を誤らせながら、うんざりするようなウソまみれの国会審議が続いている。自分の品格と尊厳と名誉を捨ててまで、エリート官僚が嘘をつくのは何故か。官僚のプライドは昇進しかないのか?自己の品格を守ることはどうでもいいのか?粛々と国民のために仕事をすることが公務員の任務であり、それでも政府が辞職を求めれば国民が気が付き騒ぎだすだろう。しかし、このまま政権が続くとウソまみれの説明で憲法を変えられ、アメリカの戦争に協力する道を議会制民主主義の国民が許すことになってしまう。人類の進歩は殺人や戦争を絶対悪として認めない国民が、圧倒的多数に育つことだと思う。国民が政治の責任を厳しく見守り、戦争への危険な動きにノーと言える可能性を放棄しては、人類の進歩はありえない。


初稿 2018.4.12 更新 2019.8.28


激動の世界をゆく 「ヨーロッパ 終わらない危機 前編 “愛国心”に揺れるポーランド」

2018-04-10 18:41:38 | 自然と人為

 国民国家であるドイツ国民は、かつてユダヤ人を迫害した民族主義、全体主義のナチス・ヒットラー独裁政権を生んだ。その過去の過ちを反省して、「自由・平等・民主主義」の理念でヨーロッパ諸国が一致して「EU」が出来た。その理念が、戦後70年にして大きく揺らいでいる。
 自国第一主義、民族主義、難民受けいれ拒否からメディア・司法の支配まで、様々な理由があろうが権力を集中させた独裁政治への危険な道を国民が支持している。EUで協力して「自由、平等、民主主義」を守ろうとする理念が、今、危機にある。

 日本も国を守るの一声で、軍備を拡張し、戦争を放棄した憲法を変えようとしている。戦争ほど国民の自由と権利を奪うものはない。EU各国の国民の動きは、日本も学ぶべきことが多い。これを取り上げたBS番組(NHK)は是非皆さんにも観ていただきたいが、何故か動画がない。番組の情報も消されている。そこで、JCCテレビ【最新のTV情報】の情報を、そのまま利用させていただき、写真を挿入しておいた。このような番組が何の意図があるのかいつでも自由に見れないのは、日本の国民にとっても赤信号だ!

2018/03/28 BS1 【激動の世界をゆく】
 かつてナチスドイツのアウシュビッツ強制収容所があったポーランドのブジェジンカ村。ここで150万人が虐殺されたことなどから、悲劇を二度と繰り返さないため、戦後のヨーロッパでは、自由・平等・民主主義の理念のもとに統合を進めてきたが、現在、その理念が揺らいでいる。EUの危機は現在進行形で、EUは試練の時を迎えている。東ヨーロッパでは「自国第一主義」を掲げる政権が反発を強めていて、ポーランドでは政府がメディアや司法への介入を強化。民主主義が脅かされると懸念が広がっている。




 一方、EUが国家の統合を進める中で「民族主義」が台頭。スペイン・カタルーニャでは民族が国家からの独立を求めヨーロッパの火種となっている。難民や経済格差など統合を分断する問題に絶えずさらされてきたEUが、次なる危機にどう向き合うのかに迫る。




2018/03/28 BS1 【激動の世界をゆく】
 ポーランドの政治を一変させたのが与党「法と正義」通称「PiS」だ。EUが求めていた難民の受け入れ拒否を掲げ3年前の議会選挙で圧勝しました。政権の座に就いてすぐ進めたのが“ポーランド第一主義”。「強いポーランドが必要だ」と市民が銃をとる事を奨励。去年、武力衝突や災害に備える「地域防衛軍」を設立し、すでに7000人近くの志願兵を集めている。

 更に打ち出したのがEUの基本理念を揺るがす政策でした。メディアのみならず司法制度にも介入。去年7月政府が最高裁判所の人事権を事実上握る法案が可決しました。「法の支配」が揺らいでいるとEUから「加盟国としての資格を停止する」とまで警告されているのだ。
 それでもPiSの人気は右肩上がりで、支持率は40%を超えている。中でも支持が広がっているのが20代の若者たちだ。与党の「法と正義」というのは若者の組織も活発だ。毎週木曜日に何十人かの若者青年部の若い人たちが集まって集会を開いているという事なんだね。民主主義が当たり前の社会で育ち経済的にもEUの恩恵を受けてきた世代がなぜ支持するのか。集会に参加した若者たちに率直に疑問をぶつけてみると、若者たちが強く共感していることが分かるほどPiSの主張や政策をよどみなく答えた。ポーランド第一主義は、EUで影響力のある国になりたいというプライドを刺激することにより、若者に深く浸透している。

2018/03/28 BS1 【激動の世界をゆく】
 取材を進めるとかつての共産主義体制を知る世代にもPiSの支持者が少なくない事が分かってきた。ポーランド南部ノバフタは、当時製鉄で栄えた町だ。この町でかつて民主化を求めて戦ったリーダーの1人・カジミエシュクブラックは、これまでの政治に失望し続けてきた。第二次世界大戦の後ソ連の厳しい支配下に置かれていたポーランド。
 1980年、クブラックが労働者の権利や公正な社会を求めて身をささげたのが労働組合「連帯」。クブラックはワレサ議長と共に活動の先頭に立ち、10年近くかけてソ連の支配から自由を勝ち取りった。しかしその後やって来たのは資本主義の荒波。製鉄所は民営化され、4万人の仲間が解雇。






 会社の利益は一握りの経営者が独占するようになった。“「連帯」に裏切られた”と絶望するクブラックの救いとなったのが、“これまでの政治を一新する”というPiSだった。メディアや司法の人事に介入したことにより、既得権益を得ていたエリートがようやく追放されたとクブラックは感じている。最後に自らの原点だという場所に案内してくれたクブラックは「友の死を無駄にしたくない。虐げられてきた人々の無念が晴らされる社会であってほしい」と話した。積もり積もった思いがクブラックをPiSへの支持に向かわせている。
ソ連共産党・ヨシフスターリン書記長の映像。

2018/03/28 BS1 【激動の世界をゆく】
 EUの政策に反発する国は、冷戦時代の旧東側諸国に広がっている。EUは3年前中東などから来たおよそ16万人の難民を加盟国で分担して受け入れる事を決定したが、ポーランドをはじめハンガリーチェコがその受け入れを拒否。こうした国々が連携を強めている。




 EUに対する不満の背景にあるのが経済的な格差で、ポーランドは、EU加盟後には海外の投資で次々と工場が建設されたが、賃金は加盟国平均の3分の1止まっていて、多くの国民がEU域内に出稼ぎに出るようになっている。一般市民の男性は「仕事はあるが、賃金は上がらない」、女性は「そのうち出稼ぎに出るつもりだ」と話す。


 そうした人々の不満を取り込む政権与党PiSがどんな国づくりを目指しているのかについて、メディア戦略を担う若手のホープ・ドミニクタルチンスキ議員の活動を紹介。タルチンスキ議員が地元・キエルツェで開いた集会では、満員の聴衆を前に「EUはポーランドを不等に扱っている」と主張し、メディアへの介入については「ポーランド政府の立場をアピールするため、時には必要だ」とし、国内政策としては「“ポーランド第一”で福祉を手厚くした」と強調した。約000億円の国家予算をかけて子どもがいる家庭に支給する手当を急速に拡大させている。こうした政策を今後も進めるためには憲法の改正も必要だという立場を明らかにし、司法への介入も国の秩序には欠かせないと説明している。
補助金、家計、国家財政に言及。
ハンガリー・オルバン首相のコメント。

2018/03/28 BS1 【激動の世界をゆく】
 政権与党PiSがどんな国づくりを目指しているのかについて、メディア戦略を担う若手のホープ・ドミニクタルチンスキ議員の活動を紹介。政府によるメディアや司法への介入に懸念が広がっている事をどう考えているのかについて、議員に直接聞いた。“メディアの人事権を事実上掌握してるんではないか。ただ少しやり方が強硬強引すぎるのではないか”ということについて、法と正義(PiS)・タルチンスキ議員は「公共放送で働きたい人たちが働けるようにしただけだ。民主主義すなわち“多数決”が一番重要だ。(私たちは)大多数が臨んだ改革を実行している」と話した。


 EUとの関係を今後どうしていくつもりなのかについて、議員は「私たちは対等に尊重されるEU加盟国でありたい。昔からの加盟国が新しい加盟国に自分たちの意見ばかり押しつけ、(私たち新加盟国の東欧諸国は)子どものように扱われている。私たちがどう愛国心を示すべきかについてはとやかく言われたくない」と述べた。自由と民主主義を重んずるEUの一員となり、成長は加速したたポーランドだが、旧西側諸国との溝は埋まってはいない。
 人々の心に潜むフラストレーションを、今の政権は「愛国心」に置き換えることで支持を勝ち得ているようだった。


 ポーランドの将来に危うさを感じているEU・トゥスク大統領は、実はポーランドの出身。トゥスク大統領も20代の頃「連帯」の運動に身をささげ、その後ポーランド首相も務めた人物。ポーランドの過去を知るからこそEUの意義を誰よりも強く訴えている。トゥスク大統領のコメント「EUは単なる官僚組織ではない。共通の価値観である民主主義の基礎なのだ」。

2018/03/28 BS1 【激動の世界をゆく】
 EUからの干渉に強い抵抗を示しているポーランド。背景にはもう1つ周囲の大国に繰り返し侵略されてきた苦い歴史がある。第二次世界大戦ではドイツとソ連の侵攻を受け国家が消滅。首都ワルシャワは建物の8割が破壊される壊滅的な被害を受けた。祖国を復活させるという執念の原点には、大戦末期に起きた「ワルシャワ蜂起」がある。ワルシャワ蜂起は、1944年8月1日、ナチスドイツに占領されていたワルシャワで、市民が隠していた武器をかき集めて一斉に立ち上がり、ドイツ軍の圧倒的な軍事力の前に2か月で鎮圧された事件。犠牲になった市民はおよそ20万人に上った。

 ワルシャワ蜂起を伝える博物館には当時市民が逃げ込んでいた下水道が復元されている。軍事的には勝ち目が薄い状況でなぜ市民は立ち上がったのか。博物館のスタッフは「何もしないことが最悪の選択肢だった」と話した。ワルシャワ蜂起に参加した人たちは今どんな思いを抱いているか、実際に参加したレシェックジェコフスキに話を聞いた。ジェコフスキは89歳、蜂起に加わりナチスの迫害を生き延びた。


 当時の思いを語る品を今も大切に保管している。ポーランドが国是としてきた「名誉」と「神」、そして「祖国」。ジェコフスキも「“祖国の名誉を取り戻す”ために立ち上がった」と言う。今は周りの国と協調していく時代だというジェコフスキは、現政権を支持するかどうかは明言しなかったが、国を支える柱は「愛国心」だと考えている。ジェコフスキのコメント「私はポーランドの自由が続くと信じている。しかし、自由が奪われたら再び戦う」。

2018/03/28 BS1 【激動の世界をゆく】
 苦難の歴史を背景に「ポーランド第一主義」を推し進める政府。いまホロコーストの責任をめぐって国際的な論争を引き起こしている。きっかけは先月成立した新たな法律で、「“ポーランドが国としてホロコーストに加担した”と非難した者には最大で禁固3年を科す」というもの。ナチスドイツに占領されていた時代、ポーランドという国は消滅していた。生き延びるため、密告する事でホロコーストに加担した人がいたことも事実だが、それを法律で規定してまで「被害者」だと強調して「加担した」という批判を禁止する政府。歴史の歪曲につながりかねないと懸念の声が上がっている。



 勢いを増す「自国第一主義」の潮流にヨーロッパはどこへ向かうのか。ヨーロッパ統合の原点ともいえるアウシュビッツ収容所を訪問。アウシュビッツには広大な敷地に数え切れないほどの収容所収容施設が並んでいて、第2収容所のビルケナウには、線路を貨車で多くのユダヤ人などが運ばれてきて、その多くが死に至った。暴走するナチスのナショナリズムをヨーロッパは止める事ができず、ホロコーストによる犠牲者は600万人に上る。ほんの70年とちょっと前のことで、それほど古い話ではない。そんなアウシュビッツでは、今老朽化する建造物を残そうと、修復作業が続けられている。アウシュビッツへの訪問者は年々増え、今では年間200万人を超えている。行き過ぎた「自国第一主義」は愛国心を肥大させ時に国を暴走させる。その暴走を食い止める「歴史に学ぶ力」は若い世代に受け継がれている。
ナチスドイツ・アドルフヒトラー総統の映像。
イスラエルの男性記者、アウシュビッツ収容所訪問者(イタリア人・女性、ドイツ人・男性)のコメント。
激動の世界「ヨーロッパ 終わらない危機」(動画)
「ユーロ危機はまだ終わらない」 2014年05月20日~英シュローダーのアナリストに聞く
ポール・クルーグマン「さっさと不況を終わらせろ」 (2) ユーロ圏の危機ほか

初稿 2018.4.10 更新 2018.4.11

農業は文明と格差の母となり、人類は自然と社会の支配欲を持ち続けている。

2018-04-08 18:42:46 | 自然と人為

 狩猟採取から農業へ、それは2足歩行を始めた人間が、700万年も環境の変化に対応しながら生き延びて、「なぜ農業を始めたのか」の問題であり、「農業起源の考古学―農耕牧畜はどのように始まり、世界に広まっていったか?」を問う研究は、今も精力的に行われている。
 「人類最古の農業は2万3000年前の中東?」 (2)と言う報告があるが、これは小規模で後世に引き継がれた形跡はない。永井俊哉が指摘するように、農業は寒冷化を生き延びるために始まったが、次の温暖化では狩猟採集に戻ったのだろう。

 それでは「なぜ、1万5千年前に終わった最終氷期の後にだけ文明が生れたのだろう。」 まず、“人類最古の農業”栽培オオムギの起源を解明一万年前に突然変異…〝人類最古の農業〟起源を解明 岡山大研究チームという報告もあるので、広く農業が広まり、食糧の備蓄を可能にし始めたのは、それから約1万年後のことだと思われる。
 しかも、一般に考えられているように狩猟採集から農業へではなく、定住から農耕へという『人類史のなかの定住革命』Kindle版)の西田正規説を私は支持したい。それまでいた獣たちが気候変動でいなくなり、人は水産資源に頼らざるを得なくなったのだ。そして、それが人類史上初めての定住と農耕の開始につながっていった。世界各地の農耕が開始された場所は、農業のために水資源が必要なだけでなく、水産資源を利用するために定住を始めた場所なのだろう。視点を変えると状況が新鮮に見えてくる。

 7万年前に始まって1万年前に終了した最終氷期には寒冷期と温暖期が繰り返されたが、衣服が使われるようになったのは、七万年前頃のスマトラ半島のトバ噴火による寒冷化による人口減の環境が影響していると思われる。古い繊維の痕跡は発見しにくいが、アメリカ、ジョージア州の洞窟群からは、約3万年前の植物繊維が見つかっているので、衣服の生活はその後も維持されたのだろう。衣服を着ることでシラミも共生し、体毛も次第に少なくなっていったのだろう。
 参考: 過去1000万年の気候変動の概要

 「農業の誕生とは、食料を追い求めることをやめ、育て始めることになった時だと定義することができる(農業の歴史のあらまし)。」 農業の起源は定住に始まるとして、その「農業は人類に何をもたらしたのか?」 ダイアモンド博士の「ヒトの秘密」を紹介しておく。
 参考: NHK ダイアモンド博士の“ヒトの秘密”
  第7回「農業は人類に何をもたらしたのか」
  第1回「チンパンジーからヒトへ」
   第2回「動物のコトバ・ヒトの言語」
   第3回「芸術のジョーシキを疑え」
   第4回「性と出会いのメカニズム」
   第5回「夫婦の起源 性の不思議」
   第6回「不思議いっぱい ヒトの寿命」
   第8回「“進化”から見た文明格差」」
   第9回「地球外生命体(エイリアン)も進化する?」
   第10回「集団虐殺はなくせるのか」
   第11回「文明崩壊 人類史から学ぶもの」
   第12回「格差をのりこえて」


 「最終氷期が終わり温暖化に向かっていた気候が、再び急激な寒冷化を迎えたヤンガードリアスという寒冷期が始まった11,050年前にライムギの耕作・栽培と狩猟、魚釣り、野生植物の採集で生活していたの100人から200人の小集落のテル・アブ・フレイラ遺跡が古代のレバント東部・メソポタミア西部に見つかっている。これが現在のところ、人類最古の狩猟採集から農業・漁業への移行例となっている。

 農業の普及により人口は増加し、分業も始まった。そして権力が誕生し、戦争も始まった。文字の歴史は原文字=簡略記号として紀元前7000年紀に中国(亀の甲羅)、古ヨーロッパ文字(ヴィンチャ文字)に始まり、ものごとを簡略化して描いた絵文字(ピクトグラム)から言葉の発達と同様に文法を発達させた。そして文字の発明により文明が発達した・・・、と思っていたら「人類の文化は『信仰』から始まった」そうだ。「文明が始まる前に人類が作り上げたのは、文字でも都市でもない紀元前10000年~紀元前9000年頃に狩猟採集民によって建立された『宗教建造物』だった」ようだ。
 参考: ヒトは何をどう成し遂げてきたのか
      『1万年前』に作られた遺跡まとめ
      【遺跡で見る】メソポタミア周辺の先史時代

 それから4大文明で知られる都市国家の時代を迎える。
1.メソポタミア文明のシュメール人の都市国家
 「前4000年紀:この時期の初め頃、最初の都市文明が形成された。その代表がユーフラテス下流の左岸にあるウルク(現在のワルカ)である。またウルク遺跡から楔形文字を記した粘土板が大量に見つかっており、これが最古のまとまった楔形文字資料である。このメソポタミア南部の都市文明を成立させたのはシュメール人(民族系統は不明)と言われている。シュメール初期王朝:前3000年紀のシュメール初期王朝(前2900~2335年頃)時代には、ウルク、ラガシュ、ウル、ニップルなど20ほどの都市国家が形成された。シュメール人は青銅器や楔形文字を用い、多神教信仰、ギルガメッシュ叙事詩などの文化を産みだした。」
2.エジプト文明 前3000年頃
 「ナイル川の定期的氾濫によって肥沃な土地という恵みを受けて形成された文明。下エジプト(ナイル川下流の大三角州地帯)の古代エジプト人が、メソポタミア文明の影響をうけて前5000年頃から潅漑農業による農耕文明に入り、ノモスという小国家の分立を経て、前3000年頃にエジプト古王国という統一国家を成立させた。農耕文明はメソポタミア文明より遅かったが、統一国家の形成はそれより早い時期であった。古王国の時代に青銅器の使用、文字(ヒエログリフ)、ピラミッドなどの特徴のあるエジプト文明が繁栄した。」
3.中国~黄河文明の特徴、仰韶文化、殷、周の成立~
 「黄河文明は出土土器の特徴で区別され、前期の文化を彩陶文化(紀元前4000年~紀元前3000年頃)、後期の文化を黒陶文化(紀元前2000年~紀元前1500年頃)と呼ぶ。彩陶文化は、遺跡が発見された仰韶村の名前から仰韶文化、黒陶文化は遺跡が竜山鎮にあったので竜山文化とも言う。
 また、古代中国の城壁を持つ都市国家を邑(ゆう)と言う。「前4000年紀の中国では、黄河中流域の農耕地帯に形成された農耕集落が次第に統合され、城郭を持つ都市国家である邑が形成され、さらに紀元前1500年ぐらいから黄河中流域の小都市国家を統合して、殷王朝」が成立した。
4.インダス文明 紀元前2500年頃から1500年頃
 今はパキスタンにある都市国家、モヘンジョ・ダロハラッパー
 「モヘンジョ・ダロの地名は現地の言葉で「死の丘」を意味する。最大で4万人近くが暮らしていたと推測されているが、大きな遺跡に権力者の象徴となる巨大な王宮も神殿も軍隊の跡もない。それどころか、インダス川流域に広がる100を超える遺跡のなかに、戦場の跡さえほとんど見つかっていない。数多くの墓が出土しているが、埋葬されている人々の間には身分の差も見られない。大規模な洪水によって滅亡したとされているが、ガラス質の地表、そして「瞬間的な高熱」の跡が発見されているので、隕石の落下を疑う必要があろう。
 参考: インダス文明と古代インド

 そしてオリエントの統一~世界帝国の出現~
 民族移動期":前2000年ごろから前1500年ごろまでは、西アジアに大きな民族移動の波が押し寄せた時代であった。インド=ヨーロッパ語族のヒッタイト人や、カッシート、ミタンニなどが西アジアに侵入し、メソポタミアにもカッシート王国やミタンニ王国が生まれた。彼らは西アジアに鉄器文化をもたらし、この動きはオリエントに世界帝国を出現させる前提となった。
 アッシリア帝国の出現 前7世紀:メソポタミア北部に起こったアッシリアは、この間、鉄器文化を受容して強大な軍事力を有するようになり、前9世紀には西アジアで最有力となり、前7世紀にエジプトを征服してオリエントを統一し、アッシリア帝国は西アジア最初の世界帝国となった。これによって、メソポタミア文明とエジプト文明は一体化し、オリエント文明に統合されたと言える。
 参考: 古代アッシリア、前3000年紀末~前663年、エジプト征服


初稿 2018年4月8日 更新 2018.5.14(最後の部分を削除)