国民のために公正と清貧が求められる政治と行政のはずだが、自分のために公的権限を行使して些細な事と恥とも思わない総理がいて、倫理観に欠けた副総理や大臣等、類は類を呼ぶ。しかも、これを諫めないで守ろうとする多くの政治家や官僚もいる。政治の腐敗の中心の同心円にいる者たちは、何時の時代もそれを異常だとは思わない。
一方、封建社会の江戸時代でさえ、関ケ原の戦いから80年、1680年に5代将軍となった綱吉は、武断政治から法整備などを基本に据えた文治政治に転換した。犬公方綱吉と悪名高い「生類憐れみの令」は野犬対策もあったが、実は子捨て、子返し、姥捨て、病人捨てなどから人の命を守ろうとするものだった。荒れた戦国時代からの社会を、文治政治で元禄文化に花咲かせた綱吉の治世の再評価が、政治への信頼が地に落ちた現代においてなされているとは、皮肉なものだ。
参考: BS歴史館 : 徳川綱吉 / 犬公方の真実(動画) 儒学・儒教
忠臣蔵における徳川綱吉の裁断は正しかった(NHK英雄たちの選択)(感想)
徳川綱吉 ~犬公方の知られざる思い~|ザ・プロファイラー(感想)
綱吉、晩年の記 「思無邪 」 (政を司る人間はどう考えるべきか、
考えによこしまなもの邪念が入ってはいけない)
徳川綱吉は暴君だったのか ~犬公方の素顔~(感想)
ドイツ人医師ゲッペルは綱吉のことを「法律を厳格に守り、国民に対し憐み深い
優れた君主である。日本は、生活習慣、芸術、道徳において、ほかのあらゆる国
の人を凌駕している。」
元禄文化は上方(大阪、京都)の町人が中心となって盛り上がったが、その雰囲気が残る京都・錦小路を代表する青物問屋(流通業)「枡屋」の跡継青年は、23歳のとき父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名した。しかし、商売には力が入らず、若くして禅に入り俗世を離れ、植物や鶏を描くことに熱中し、ついには丹波篠山で2年間も自然の中に生きる多様な動植物のいのちの営みを描く生活をした後に家業を弟に譲り、相国寺の禅僧・大典顕常から後に与えられたと推定される居士号(こじごう/出家はしていないが知識や実践で僧侶に準じるとされる人に与えられる名)『若冲』という絵師になった。
若冲の最初に描いた動植綵絵が、「芍薬群蝶図」(1757年?)だと言う。若冲の絵は緻密で、新鮮で、いつまでも生きているような華やかさもある。現代の繊細なデザイン画を彷彿させる一方で、動植物の絵には日本にないものまでも同居させ、視野が広くてユーモアもある。若冲の絵は、多くのものを学ぶ楽しみを与えてくれる。参考になる資料を紹介させていただいたので、隅々まで目を通していただきたい。
参考:「若冲の謎」 連載第1回 ~ 13回 「ふろむ京都山麓」記事一覧
「若冲という名前」(1),(2) 若冲 略年譜
「伊藤若冲の生涯」 (1),(2),(3),(4),(5)
動植綵絵 第1期(1757-1760),第2期(1761-1765),第3期(1765-1766)
若冲の動植綵絵(どうしょくさいえ)には、「あらゆる生き物が登場する。
ニワトリ、スズメから、ハサミムシ、フグ、そして虫に食べられた葉っぱまで…。なぜ、そこまで生き物を描き続けたのか? それはいのちを巡るミステリー。実は、「動植綵絵」にとりかかる前、若冲には“空白の二年”があった。さらに、若冲の時代に飢きんが起こり大勢の人が亡くなった。絵に隠されていた人々に語りかける意外なメッセージとは?」 (「若冲 いのちのミステリー」より引用)
「出家とは自分のやりたい道をひたすら進むために、他のものをみんな切り捨てて、その道だけに進むような人生を選ぶこと。
釈迦と若冲はそういう意味で似ている。釈迦は王子として生まれ出家が許される状況で、仏教と言う巨大な文化をつくった。若冲も出家が許されて、亡くなるまで絵を描き続けてよいという環境で傑作を残した。釈迦と若冲のいずれも恵まれた環境の中で、見事に出家の人生を実現した人だと思う。」「若冲 いのちのミステリー」花園大学 仏教学者 佐々木閑
釈迦涅槃図は釈迦の入滅の様子を、弟子や様々な鳥獣と共に描かれているのが一般だが、若冲の「果蔬涅槃図」は、釈迦の代わりに二股大根、弟子や鳥獣の代わりに野菜と果樹が描かれている。
「二股大根は江戸時代のある時期までは、お正月の鏡餅の上にミカンの代わりに置かれていた。神棚に二股大根を置いて拝む絵もある。石川県、奥能登では今でも二股大根を田んぼの神にささげ、五穀豊穣を祈っている。」 (「若冲 いのちのミステリー」より引用)
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「果蔬涅槃図」 (参考:東光寺「釈迦涅槃図」 73種類の動物・鳥・昆虫)
釈迦涅槃図とは?,釈迦涅槃図と動物
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釈迦涅槃図には「虎や象、水牛といった日本には棲息しない動物や、空想の動物」も描かれているが、NHK番組「若冲 いのちのミステリー」を観て、”「鳥獣花木図屏風」という作品は、ゴットフリートの『史的年代記』,(2)の創世記のエデンの園の銅版画の挿絵から着想を得たものという話が興味深かった。”(写真家 田尻健二)というコメントもある。
若冲の桝目描きには、「白象群獣図」(個人蔵)と屏風の「鳥獣花木図屏風」と「樹花鳥獣図屏風」の2つ、計3図ある。 前者はプライス・コレクションで後者は静岡県美術館蔵である。NHK番組「若冲 いのちのミステリー」では前者を紹介しており、色彩も鮮明だ。『鳥獣花木図屏風』については、『鳥獣花木図屏風』真贋論争とこれに関連したコメントがあるが、解説は「鳥獣花木図屏風右隻」しか見つからない。これによると、「右隻は、白象を中心にして、向かって右手にはイノシシ、ヤマアラシ、唐獅子、獏、虎などが、左手にはヒョウ、水牛、ラクダ、オランウータンなど、併せて29種類の動物が描かれている。その中には、若冲が実際に見たことのない動物をあっただろう。絵には、正体のはっきりしない動物も描かれている。」と説明されている。同じ題材なので静岡県立美術館の「樹花鳥獣図屏風」の解説も引用させていただくと、屏風の『右隻は「獣尽くし」左隻は「鳥尽くし」で、それぞれ実在の身近なものから、外国産、また空想上の生き物まで、様々な鳥獣が水辺に群れ集う風景。「尽くし」の趣向や白象・鳳凰が各隻の主役であるところから、吉祥性の強い大変おめでたい屏風』と説明されている。
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参考: ゴットフリート『史的年代記』の流伝と影響 -鎖国時代の歴史観を考える-
京都大学教授 松田 清氏
江戸時代の 日本とオランダ 日蘭交流400年記念シンポジウム報告集
「生誕300年記念 若冲展」
若冲が最初に描いた動植綵絵は「芍薬群蝶図」(41歳?)とされているが、45~49歳の頃、動植綵絵 第2期 (1761-1765)の作品に、若冲の自画像を池辺の動物に模して描いた「池辺群虫図」がある。
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「池辺群虫図」
「伊藤若冲は85年の生涯、3ヵ寺に深く関わった。まず伊藤家の菩提寺である宝蔵寺。錦市場から徒歩数分の位置にある浄土宗西山派、裏寺通六角下ルの同寺境内には、若冲の父母と弟たちの墓がある。しかし若冲の墓は宝蔵寺にはない。だがおそらく四十歳で隠居するまでは、彼もこの寺の信徒であったろうと思う。」 (若冲の謎 第10回前編引用)
「つぎに親密になったのが、御所の北にある臨済宗の相国寺だ。三十歳代なかば、売茶翁に出会い、翁の仲立ちで相国寺の大典和尚を知ったと、わたしは考えている。
本山相国寺には「動植綵絵」「釈迦三尊像」三十三幅、金閣寺で有名な鹿苑寺大書院には水墨障壁画五十面を寄進している。若冲と大典、ふたりの関係は非常に深いものがあった。なお鹿苑寺は相国寺の末寺である。
しかし彼の最高傑作「動植綵絵」三十幅を相国寺に寄進した後、若冲は五十歳代なかばのころ突然、相国寺と袂をわかち、絶縁してしまう。相国寺墓所には、若冲の墓もある。ただ生前に建てた寿蔵であり、彼の亡き骸は埋められてはいない。」 (若冲の謎 第10回前編引用)
「そして最後の第三寺は、伏見深草の黄檗の寺、百丈山「石峰寺」である。還暦を迎える前、五十八歳の若冲は黄檗山・萬福寺に帰依する。そして萬福寺末寺である石峰寺に、亡くなる八十五歳まで四半世紀を超える歳月を晩年の力すべてを注ぎ込んだ。通称「五百羅漢」の石造物群、観音堂天井画など、若冲が完成を目指したのは、現代のことばであらわせば、釈尊一代記パノラマ「佛伝テーマパーク」であった。」 (若冲の謎 第10回前編引用)
「<売茶翁再び>
売茶翁は京の市井で売茶を生業としたが、宗教者また文人として最高の世評人望を得、たくさんのひとたちに大きな影響を与えた。ちなみに彼の売茶とは、茶道具を肩に担いでの移動式喫茶店、またささやかな茶店を構えて煎茶を点てる小商いであった。しかし佛教の僧侶が物品を売った代金を生活の糧にすることは、戒律で禁じられていた。だが翁はかまわずに売りつづける。彼は佛法についてこう語っている。「こころに欲心なければ、身は酒屋・魚屋、はたまた遊郭・芝居にあろうが、そこがそのひとの寺院である。自分はそのように、寺院というものを考えている。」 (若冲の謎 第10回前編引用)
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売茶翁像 (1),(2)
「動稙綵絵」と「釈迦三尊像」相国寺 若冲
承天閣美術館 名宝紹介
若冲(51歳)は、相国寺に「動植綵絵(サイエ)」30幅(のち宮内庁に献上)と『釈迦三尊図』3幅を寄進し、鹿苑寺大書院の障壁画を手掛けた。
若冲の紹介に当たっては、ブログを読みやすくするため(若冲の謎 第10回前編引用)を含めてWebに公開されている多くの資料を引用させていただいている。是非、その資料を読んでいただきたい。
初稿 2018.4.28